国際プロレス
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国際プロレス(こくさいプロレス)は、かつて存在した日本のプロレス団体。正式名称はインターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社(International Wrestling Enterprise)。略称はIWE(アイ・ダブリュー・イー)。
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- 2 国際プロレスの概要
国際プロレス
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初来日は1968年4月、日本レスリング協会の会長で国際プロレスの発起人でもあった八田一朗が、当時のロビンソンの活動拠点だった英国のジョイント・プロモーションズとのコネクションを持っていたため、八田の仲介で国際プロレスの『日英チャンピオン・シリーズ』に参戦。当時の国際プロレスはブッカーのグレート東郷と決別し、八田を窓口にヨーロッパを外国人選手の新しい招聘ルートとして再出発していたが、日本プロレスのアメリカン・プロレス路線を見慣れていた日本のファンや関係者にとって、欧州の選手は地味な印象を持たれがちだった。 しかし、未知の技ダブルアーム・スープレックスを日本で初公開したロビンソンは日本でも強烈なインパクトを残し、一躍注目の存在となる。初来日時には豊登とサンダー杉山を相手にヨーロピアン・ヘビー級王座を防衛。再来日となる同年11月開催の『ワールド・チャンピオン・シリーズ』(第1回IWAワールド・シリーズ)では優勝を果たし、IWA世界ヘビー級王座の初代チャンピオンに認定された。なお、同シリーズでは英マットでの盟友ジョージ・ゴーディエンコやピーター・メイビアともリーグ戦で対戦した(メイビアとはリング外のストリートファイトでも一戦交えている)。 シリーズ終了後も国際プロレスに残留し、翌1969年上期まで、外国人でありながら日本人陣営のエースとなって活躍。それまで外人レスラーは敵役という図式が支配的だった日本のプロレス界において、日本人選手と共闘する初の外国人ヒーローとなった。また、国際プロレスでは若手選手のトレーナーも兼任し、寺西勇、マイティ井上、アニマル浜口らを指導している。 IWA世界ヘビー級王座は、1969年1月から5月にかけて、グレート草津、チーフ・ホワイト・ウルフ、スタン・スタージャック、ラッシャー木村を相手に防衛。同時期に保持していたヨーロピアン・ヘビー級王座の防衛戦も、アルバート・ウォールらを挑戦者に迎えて行われた。IWAワールド・シリーズでは、1970年3月の第2回大会でも決勝でストロング小林を下して2連覇を果たす。1971年3月の第3回大会では、ビリー・ライレー・ジムでもスパーリングを行ったことのあるカール・ゴッチ、そしてモンスター・ロシモフと名乗っていた頃のアンドレ・ザ・ジャイアントとの3者で優勝戦を争った。 1970年からのアメリカ進出に伴い、同年5月にIWA世界ヘビー級王座を杉山にリングアウト負けで明け渡すも、AWAのスター選手となってからも国際プロレスには度々来日。1974年には、前王者小林の離脱で空位となっていた同王座に返り咲いている(6月3日の王座決定戦で木村を破って戴冠、タイトルをアメリカに持ち去った)。なお、この来日時にはタッグマッチながら初めて金網デスマッチに出場している(5月26日、豊田市体育館におけるロビンソン&井上vsセーラー・ホワイト&レーン・ゴルト)。最後の参戦となった同年秋の『ワールド・チャンピオン・シリーズ』では、11月20日に蔵前国技館にてバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座に挑戦した。
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国際プロレス
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近鉄退社後の1977年11月29日、原は国際プロレス入団を表明してプロレスラーに転向。新日本プロレスも原の獲得を狙っていたが、同じくラグビー出身者であるグレート草津のスカウトで国際プロレスに参加した。覆面レスラーとして試験的に試合を行った後、1978年6月29日の「'78ビッグ・サマー・シリーズ」大阪府立体育館大会にて、寺西勇を相手に素顔で正式にデビュー。同年7月3日に海外武者修行に出発、修行先でのカナダ・カルガリー(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)ではファイティング・ハラ(Fighting Hara)を名乗り、2戦目にノーマン・フレデリック・チャールズ3世から英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得(スケジュールの関係で即返上)。ビッグ・ダディ・リッターやブレット・ハートとも対戦した。同年9月に西ドイツへ移動し、トミー・ビリントン、ワイルド・サモアンズ、ミスター・ヒト、ミスター・サクラダ、ムース・モロウスキー、マイケル・セイズなどと対戦。12月8日に帰国後、12月27日にラグビーファンである作家の野坂昭如に阿修羅・原と命名される。 1979年の「'79新春パイオニア・シリーズ」より本格参戦し、5月6日にミレ・ツルノからWWU世界ジュニアヘビー級王座を奪取。その後はダイナマイト・キッド、ローラーボール・マーク・ロコ、ジプシー・ジョー、剛竜馬らを挑戦者に防衛を重ねた。国際プロレス次代のエースとして期待され、アレックス・スミルノフ、オックス・ベーカー、ジョー・ルダック、モンゴリアン・ストンパーなどエース格のヘビー級外国人とも対戦し、金網デスマッチやチェーン・デスマッチも行った。また、AWAのバーン・ガニアやニック・ボックウィンクル、WWAのディック・ザ・ブルーザーなど、特別参加の大物選手とのシングルマッチも行われた。 1980年4月3日には新日本プロレスのリングに登場し、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗れ、原もスランプに陥る。 以後、WWUジュニア王座を返上して1981年1月からアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)で再修行を行い(当初は「'80ダイナマイト・シリーズ」直後に出発する予定であったが、就労ビザの取得に約2か月を要した)、ヘビー級に転向した。この遠征中に雪崩式ブレーンバスター(スーパープレックス)の開発者とされるスーパー・デストロイヤーと対戦、帰国第1戦となる4月18日、スティーブ・オルソノスキーを相手にこの技を初披露して勝利、以降も雪崩式ブレーンバスターをフィニッシュ技とするようになる。5月16日にはマイティ井上とのコンビでポール・エラリング&テリー・ラザンを破りIWA世界タッグ王座を獲得した。6月にはジョー&カール・ファジーなどのチームを相手に防衛戦を行うが、同年9月に国際プロレスは解散。8月8日に根室で行われたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの金網タッグ・デスマッチでの3回目の防衛戦が、国際プロレスにおける同王座の最後のタイトルマッチとなった。
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