国際プロレスとは? わかりやすく解説

国際プロレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/10 09:39 UTC 版)

国際プロレス(こくさいプロレス)は、かつて存在した日本プロレス団体。正式名称はインターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社International Wrestling Enterprise)。略称はIWE(アイ・ダブリュー・イー)。




「国際プロレス」の続きの解説一覧

国際プロレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:02 UTC 版)

ビル・ロビンソン」の記事における「国際プロレス」の解説

初来日1968年4月日本レスリング協会会長で国際プロレスの発起人でもあった八田一朗が、当時ロビンソン活動拠点だった英国のジョイント・プロモーションズとのコネクション持っていたため、八田仲介で国際プロレスの『日英チャンピオン・シリーズ』に参戦当時の国際プロレスはブッカーグレート東郷決別し八田窓口ヨーロッパ外国人選手新し招聘ルートとして再出発していたが、日本プロレスアメリカン・プロレス路線見慣れていた日本ファン関係者にとって、欧州選手地味な印象持たれがちだった。 しかし、未知の技ダブルアーム・スープレックス日本初公開したロビンソン日本でも強烈なインパクト残し一躍注目存在となる。初来日時には豊登サンダー杉山相手にヨーロピアン・ヘビー級王座防衛再来日となる同年11月開催の『ワールド・チャンピオン・シリーズ』(第1回IWAワールド・シリーズ)では優勝果たしIWA世界ヘビー級王座初代チャンピオン認定された。なお、同シリーズでは英マットでの盟友ジョージ・ゴーディエンコピーター・メイビアともリーグ戦対戦したメイビアとはリング外のストリートファイトでも一戦交えている)。 シリーズ終了後も国際プロレスに残留し、翌1969年上期まで、外国人ありながら日本人陣営エースとなって活躍それまで外人レスラー敵役という図式支配的だった日本プロレス界において、日本人選手共闘する初の外国人ヒーローとなったまた、国際プロレスでは若手選手トレーナー兼任し寺西勇マイティ井上アニマル浜口らを指導している。 IWA世界ヘビー級王座は、1969年1月から5月にかけて、グレート草津、チーフ・ホワイト・ウルフ、スタン・スタージャックラッシャー木村相手防衛同時期に保持していたヨーロピアン・ヘビー級王座防衛戦も、アルバート・ウォールらを挑戦者迎えて行われたIWAワールド・シリーズでは、1970年3月第2回大会でも決勝ストロング小林下して2連覇を果たす。1971年3月第3回大会では、ビリー・ライレー・ジムでもスパーリング行ったことのあるカール・ゴッチ、そしてモンスター・ロシモフ名乗っていた頃のアンドレ・ザ・ジャイアントとの3者で優勝戦争った1970年からのアメリカ進出に伴い同年5月IWA世界ヘビー級王座杉山リングアウト負け明け渡すも、AWAスター選手となってからも国際プロレスには度々来日1974年には、前王小林離脱空位となっていた同王座返り咲いている(6月3日王座決定戦木村破って戴冠タイトルアメリカ持ち去った)。なお、この来日時にはタッグマッチながら初め金網デスマッチ出場している(5月26日豊田市体育館におけるロビンソン&井上vsセーラー・ホワイト&レーン・ゴルト)。最後参戦となった同年秋の『ワールド・チャンピオン・シリーズ』では、11月20日蔵前国技館にてバーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座挑戦した

※この「国際プロレス」の解説は、「ビル・ロビンソン」の解説の一部です。
「国際プロレス」を含む「ビル・ロビンソン」の記事については、「ビル・ロビンソン」の概要を参照ください。


国際プロレス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 20:29 UTC 版)

阿修羅・原」の記事における「国際プロレス」の解説

近鉄退社後の1977年11月29日、原は国際プロレス入団表明してプロレスラー転向新日本プロレスも原の獲得狙っていたが、同じくラグビー出身者であるグレート草津スカウトで国際プロレスに参加した覆面レスラーとして試験的に試合行った後、1978年6月29日の「'78ビッグ・サマー・シリーズ」大阪府立体育館大会にて、寺西勇相手素顔正式にデビュー同年7月3日海外武者修行出発修行先でのカナダ・カルガリー(スチュ・ハート主宰スタンピード・レスリング)ではファイティング・ハラ(Fighting Hara)を名乗り、2戦目にノーマン・フレデリック・チャールズ3世から英連邦ジュニアヘビー級王座獲得スケジュールの関係で即返上)。ビッグ・ダディ・リッターブレット・ハートとも対戦した同年9月西ドイツ移動し、トミー・ビリントン、ワイルド・サモアンズミスター・ヒトミスター・サクラダムース・モロウスキー、マイケル・セイズなどと対戦12月8日帰国後、12月27日にラグビーファンである作家野坂昭如阿修羅・原命名される1979年の「'79新春パイオニア・シリーズ」より本格参戦し5月6日ミレ・ツルノからWWU世界ジュニアヘビー級王座奪取その後ダイナマイト・キッドローラーボール・マーク・ロコジプシー・ジョー剛竜馬らを挑戦者防衛重ねた。国際プロレス次代エースとして期待されアレックス・スミルノフオックス・ベーカージョー・ルダックモンゴリアン・ストンパーなどエース格のヘビー級外国人とも対戦し金網デスマッチやチェーン・デスマッチも行ったまた、AWAバーン・ガニアニック・ボックウィンクルWWAディック・ザ・ブルーザーなど、特別参加大物選手とのシングルマッチ行われた1980年4月3日には新日本プロレスリング登場し藤波辰巳WWFジュニアヘビー級王座挑戦する敗れ、原もスランプ陥る以後WWUジュニア王座返上して1981年1月からアメリカのミッドサウス地区ビル・ワット主宰MSWA)で再修行行い当初は「'80ダイナマイト・シリーズ」直後出発する予定であったが、就労ビザ取得に約2か月要した)、ヘビー級転向した。この遠征中に雪崩式ブレーンバスタースーパープレックス)の開発者とされるスーパー・デストロイヤー対戦帰国第1戦となる4月18日スティーブ・オルソノスキー相手にこの技を初披露して勝利以降雪崩式ブレーンバスターフィニッシュ技とするようになる5月16日にはマイティ井上とのコンビポール・エラリング&テリー・ラザンを破りIWA世界タッグ王座獲得した6月にはジョー&カール・ファジーなどのチーム相手防衛戦を行うが、同年9月に国際プロレスは解散8月8日根室行われたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの金網タッグ・デスマッチでの3回目防衛戦が、国際プロレスにおける同王座最後タイトルマッチとなった

※この「国際プロレス」の解説は、「阿修羅・原」の解説の一部です。
「国際プロレス」を含む「阿修羅・原」の記事については、「阿修羅・原」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「国際プロレス」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「国際プロレス」の関連用語

国際プロレスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



国際プロレスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの国際プロレス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのビル・ロビンソン (改訂履歴)、阿修羅・原 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS