ユニオンプロレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/20 17:19 UTC 版)
種類 | 株式会社 |
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略称 | ユニオン |
本社所在地 | ![]() 〒160-0022 東京都新宿区新宿1-12-15 東洋新宿ビル2階 |
設立 | 2013年10月 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | プロレス興行 関連企画の運営 映像の企画、制作 |
代表者 | 代表取締役社長 ナオミ・スーザン |
主要株主 | DDTプロレスリング |
特記事項: 2004年12月、有限会社DDTテックを設立。 2013年10月、株式会社TECを設立。 |
歴史
第1次
1993年、鶴見五郎、高杉正彦、ホー・デス・ミン(後のポイズン澤田)、その他の選手、プロレス関係者と共にインディー団体統括組織「レスリングユニオン」が発足された。レスリングユニオンの傘下団体としてホーがIWA流山、鶴見がIWA格闘志塾、高杉がIWA湘南を設立。
1994年1月29日、流山市民総合体育館でレスリングユニオンの旗揚げ戦を開催。4月、レスリングユニオンが解散したため、団体名をユニオンプロレスに改称。
1995年4月28日、流山市民総合体育館大会を最後に活動停止。
第2次
DDTプロレスリングのブランド体制
2005年6月29日、DDTプロレスリング後楽園ホール大会で澤田は再旗揚げを宣言したがDDTの代表である一宮章一は難色を示していた。8月14日、澤田と一宮が和解してDDTで音響を手掛けていた会場敏が代表に就任。11月3日、新木場1stRINGで再旗揚げ戦を開催。
2006年、第1次ユニオンの代表である武井匡が裏切ってユニオン対小笠原和彦が率いるユニット「空手軍団」が勃発。度重なる抗争の末に空手軍団と和解するが、武井はミスター雁之助とユニット「武井軍団」を結成してユニオンと抗争。会場敏から代表権を奪い取って代表に就任した武井にユニオンが乗っ取られる。この状況を打開するため、澤田は助っ人として新日本プロレスの練習生時代の同期である後藤達俊とタッグを組んで武井軍団と対抗。
2007年1月12日、新木場1stRING大会で澤田と武井軍団による抗争の最終章として猛毒マムシデスマッチが行われて澤田が勝利。澤田と武井が話し合いを行って武井の勇退してDDTでマネージャーを務めていたナオミ・スーザンが代表に就任。澤田は猛毒マムシデスマッチで死んだ何匹かのマムシを供養するため、ボルネオ島にあるヘビ塚へ旅立ってユニオンからの一時離脱を宣言。
2008年1月25日、東京愚連隊との業務提携を発表したが大家健の失態によって両者の関係に亀裂が生じて業務提携は破談になって全面抗争を展開。
2009年2月6日、みちのくプロレスで活動しているヒールユニット「九龍」との業務提携を発表。2月15日、シアター1010ミニシアター大会で九龍の裏切りで業務提携は破談になって全面抗争に発展。
2010年7月14日、大家の長期欠場によるネクスト大家健ランブルは大家の推薦選手である真霜拳號が優勝。2代目大家健を襲名して当初は嫌がっていた真霜だがファンに押される形でユニオン限定で大家拳號を名乗る。12月、ユニオンに移籍したDDTの代表である高木三四郎がユニット「TKG48」を公表してユニオン本隊の対抗勢力となることを宣言。そこへ乗り込んできた矢郷良明が「レスラーの使い捨て」と反発して高木によって代表のスーザンがないがしろにされていると主張。矢郷は真霜と円華を巻き込んでユニット「ナオミ・スーザン親衛隊」を結成してユニオンを交えての3つ巴となる。
2011年1月3日、マッスル枠として確保していた後楽園ホール大会をユニオンが譲り受ける形で開催。DDT社長の高木の提案でプロモートとして全席指定席2000円(前売り価格)という後楽園ホール大会としては破格の設定で行われた(2000円による興行は翌年からDDTで開催している)。5月4日、マッスル枠として確保していた後楽園ホール大会をユニオンが譲り受ける形で開催。
2012年10月11日、崖のふちプロレスとの業務提携を発表。
2013年3月10日、ラジアントホール大会で突如現れたヒールユニット「謎覆面軍団」とユニオンの抗争がメインとなった。9月23日、ラジアントホール大会で抗争が終結して謎覆面軍団は解散。
TEC体制
9月29日、DDT後楽園ホール大会で運営会社が、それまでのDDTプロレスリングからTEC(2004年12月、マッスル坂井が設立したDDTの映像関連子会社)に変更されることを発表。10月23日、新会社による初興行を新宿FACEで開催。
2015年10月4日、後楽園ホールで旗揚げ10周年記念大会を開催。スーザンが代表を退任することになり後任を含めて今後の活動について協議された結果、同興行を最後に解散することを発表。10月7日、DDT後楽園ホール大会の試合開始前に元所属選手の去就について発表が行われて木高イサミ、久保佑允、竜剛馬、FUMA、風戸大智、福田洋、SAGATはプロレスリングBASARAを設立、諸橋晴也、チェリー、レディビアードはDDTに移籍、石川修司、三富政行はフリーに転向、大地は休業などになった。
タイトル
最終所属選手
男子選手
女子選手
スタッフ
レフェリー
- 松井幸則(DDTプロレスリング)
- 木曽大介(DDTプロレスリング)
- 吉野恵悟(先駆舎)
リングアナウンサー
FTEコミッショナー
- 風間ルミ(フリー)
映像班
- 福田亮平(フリー)
歴代所属選手
男子選手
- 寺西勇
- 松崎駿馬(現:松崎和彦)
- 荒谷信孝(現:荒谷望誉)
- ポイズン澤田(旧:ホー・デス・ミン、ポイズン澤田JULIE、ポイズンJULIE澤田)
- 726
- メカマミー
- メカマミーLite
- TOSHI
- 高木三四郎
- 冨永真一郎
- 大家健
- 河村知哉
女子選手
テーマ曲
ユニオンプロレス
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2005年 血清を飲んでポイズン澤田とともに真人間へと戻り、再旗揚げすることとなったユニオンプロレスに移籍。あとからデビューした柿本大地やマサ高梨にタイトル奪取において先を越されるなどした石川は、これをきっかけにより深くプロレスについて考える時間を多く持つようになった。 2006年 ポイズン澤田と共に空手軍や旧ユニオン軍と抗争を展開。バチバチへも参戦を始めたことで、着実に地力を上げる。ただ強いだけでなく、見ているファンに痛みが伝わるようなプロレスが自分の目指すプロレスとして形になっていった。 2007年 ポイズン澤田がユニオンを離脱。ユニオンの新エースとして、佐々木恭介を中心とするSTYLE-E軍や、ZERO1-MAX 佐々木義人 (プロレスラー)と抗争を繰り広げる。またDDTにもハワイ軍(aWo)の一員で"ハワイの戦いの神"というギミックのマスクマンKooとして参戦。第24代KO-D無差別級王者となるなど、躍進の年となった。 12月31日、プロレスサミットに出場し、房総ボーイ雷斗とのタッグで高山善廣、野橋真実組と対戦。 2008年 3月16日、DDTの新たなサブブランドであるハードヒット旗揚げ戦で飯伏幸太に勝利。 5月24日、ハードヒット第2戦、パンクラスMISSION所属となった佐藤光留のプロレスデビュー戦の相手を務めるが、敗戦を喫した。 6月18日、ユニオン新木場大会、東京愚連隊のTAKEMURAとシングルマッチを行うが敗北。 8月9日、ユニオン新木場大会、木高イサミ、小笠原和彦と組んで東京愚連隊と6人タッグで対戦。32文ドロップキックでTAKEMURAからフォールを奪い、リベンジを果たした。 11月16日、ユニオン北千住大会でKO-D無差別級選手権に挑むが、高木三四郎に敗北。 11月30日、DDT後楽園ホール大会でKO-Dタッグ王座に挑戦(パートナーは高木三四郎)。HARASHIMAの蒼魔刀でフォールを奪われ、敗北。 12月31日、プロレスサミットでメインの6人タッグ戦に出場。 2009年 1月2日、大日本プロレス 後楽園ホール大会で宮本裕向、佐々木貴組を対戦相手に初の蛍光灯デスマッチに挑む(パートナーは伊東竜二)。タッグ戦ながらデスマッチ初挑戦で勝利を挙げた。 2月 - 5月、大日本最侠タッグリーグ戦にエントリー(パートナーは伊東竜二)。決勝戦まで駒を進めたが、伊東の負傷欠場により失格に終わる。 11月29日、DDT後楽園ホール大会で飯伏幸太を下し、KO-D無差別級王座を奪取。第30代王者となる。 12月16日、新木場大会にて木高イサミの挑戦を受け、初防衛を果たした。 12月27日、DDT後楽園ホール大会にてHARASHIMAの挑戦を受け、2度目の防衛に成功。 2010年 1月24日、新木場大会にて佐々木義人の挑戦を退け、3度目の防衛に成功。 2月11日、DDT後楽園ホール大会にて男色ディーノの挑戦を退け、4度目の防衛に成功。 2月28日、新木場大会にて関本大介の挑戦を受け敗退、防衛に失敗する。 6月13日、大家健からKO-Dいつでもどこでも挑戦権の譲渡を受け、再び関本大介に挑戦するも敗退。自動的に両国大会のメインイベント出場がなくなる。 8月9日、大日本名古屋大会、南野タケシと組んでの対伊東竜二・星野勘九郎戦(蛍光灯&凶器持ち込みデスマッチ)で勝利。試合後、関本に敗れDDT両国大会のメイン出場を逃した事に対する大日本への報復として、伊東竜二の持つBJW認定デスマッチヘビー級王座への挑戦を要求。 8月29日、大日本後楽園大会、9日名古屋でのデスマッチヘビー挑戦要求に対し、アブドーラ小林から「大日本は1回指名しただけでやらせてくれる様な安い店じゃない」と糾弾。これに対し、次期挑戦者決定戦の開催を要求、受理される。 9月19日、大日本後楽園大会デスマッチヘビー級次期挑戦者決定戦・蛍光灯261本デスマッチで、アブドーラ小林に勝利、伊東への次期挑戦権を獲得する。 10月17日、大日本後楽園大会デスマッチヘビー級選手権試合・「デスマッチ3大アイテム 蛍光灯&ガラスボード&画鋲4万9205個デスマッチ」で伊東竜二に挑戦するも敗退。 10月24日、JWP女子プロレスシアター1010大会、倉垣翼とのシングル戦で勝利。 2011年 5月4日、DDT後楽園ホール大会でディック東郷を下し、KO-D無差別級王座を奪取。第36代王者となる。 2012年 3月26日、大日本後楽園大会で6人タッグでの蛍光灯デスマッチでデスマッチヘビー級王者・アブドーラ小林に勝利。試合後、小林から次期挑戦者に指名される。 5月4日、ユニオン後楽園大会で入江茂弘と組んで佐々木義人・忍を下し、BJW認定タッグ王座を奪取。 5月5日、大日本・横浜文化体育館大会デスマッチヘビー級選手権試合「自作凶器持ち込み蛍光灯306本デスマッチ」でアブドーラ小林に挑戦。激闘を展開するも敗退。 6月17日、ユニオン北沢タウンホール大会でアブドーラ小林&伊東竜二を退けBJWタッグ王座初防衛。 7月15日、札幌テイセンホール大会で岡林裕二&忍に敗れタッグ王座を失う。 2013年 1月2日、大日本後楽園大会でのBJW認定デスマッチヘビー級王座戦でアブドーラ小林に勝利し第27代王者となる。4度の防衛を果たしたが、11月4日に木高イサミとの王座戦で陥落。この後ストロングBJへ転向し現行の主要ベルト3冠を狙うことを表明。 2014年 5月31日、大日本後楽園大会で佐藤耕平と「ツインタワーズ」を結成し、ヤンキー二丁拳銃(木高イサミ・宮本裕向)を下して2度目のBJW認定タッグ王座を奪取。 7月26日、大日本後楽園大会で一騎当千strong climbの決勝戦に進出し関本大介を下して優勝。これにより当時BJW認定世界ストロングヘビー級王座だった石川晋也と「最強の石川対決」を決定させる。 8月13日、王座の前哨戦として行われた試合で、自身の投げ技により石川晋也が負傷しタイトルマッチが延期となり、そのまま石川晋也が引退したことから「最強の石川対決」は幻となった。 12月21日、第5代BJW認定ストロングヘビー級王座決定戦が行われることになり、河上隆一を破って第5代王座を獲得。大日本で初となる主要ベルト3冠の獲得を達成した。 2015年 1月3日、全日本プロレスに参戦。曙や大森隆男など、自身と近い大きさのヘビー級レスラーとぶつかりあった。
※この「ユニオンプロレス」の解説は、「石川修司」の解説の一部です。
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