作刀
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1590年(天正18年)2月に足利城主長尾顕長の依頼により打たれたことが銘からわかる(長尾顕長の当時の状況については本作長義#来歴を参照)。山姥切国広の作刀場所は、小田原城説と、足利学校説がある。徳川美術館学芸員の原は、「福永酔剣の説によると当時の刀工は冬至から夏至の間に打った刀に「二月」、夏至から冬至の間に打った刀に「八月」と刻む習慣がある。国広在銘の57振の銘文を確認したところ二月銘が18振、八月銘が23振と突出して多いことから、国広も当時の慣習に倣っていた可能性は高く、本作も1590年(天正18年)正月から旧暦の夏至にあたる5月の間まで作刀期間が広がる」という著述家さよのすけの説を紹介している。福永酔剣自身も「(銘の「二月吉日」は)鍛冶の二月、冬至から夏至にいたる間を意味すると思われる」と述べている。
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作刀
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鍛冶平は偽銘師として有名になったことから偽銘の注文が殺到したため、現存する作刀は少ないといわれている。一説では新選組局長の近藤勇が佩刀していた虎徹と切られた刀は、鍛冶平によって創られた贋作であるとされている。しかし、虎徹の真作と信じ切っていた近藤は池田屋事件でも”虎徹の刀”を利用し、事件の委細を武蔵国の後援者へ伝える手紙にも「下拙は刀は乕徹故にや、無事に御座候」と記している。また、同じく新選組隊士として池田屋事件に参加していた中村金吾は「江府住細田直光 / 万延元年二月」と切られていた、鍛冶平によって創られた真作が用いられていた。なお、池田屋事件参加者の刀を手入れした研師の覚書によれば、中村の鍛冶平も「イタミナシ」であったという。
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作刀
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初銘は友尊、朝高であり、後に朝尊、朝尊造 、山城国西陣住朝尊、土佐国住人権守朝尊 、森岡朝尊作 、山城国幡枝寓朝尊などの銘がある。朝尊は優れた理論家であった一方、実際の作品はその通りにはなっておらず、刀剣研究家の常石英明によれば、同時代の水心子正秀や源清麿の作品と比べると相当劣るともいわれている。 南海太郎朝尊作の刀を所持していた著名人として武市半平太がいる。半平太は1860年(万延元年)7月より、同門の岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内らを連れて九州で武者修行を行っていた。修行の帰途で以蔵は半平太らを先導する形で先に土佐国西端にある宿毛へ立寄っており、半平太のことを岩村有助(岩村通俊の父)に紹介していた。以蔵はしばらく宿毛に留まって、宿毛の侍たちに剣術の稽古をつけていた。その後、半平太も武者修行の帰途に宿毛へ立寄り、数日間滞在して岩村通俊ら多くの宿毛の侍たちと交流し、宿毛滞在時に南海太郎朝尊の刀を購入した。 また、新選組で副長助勤を務めていた安藤早太郎も朝尊作である二尺五寸の刀を持っていた。文政9年(1826年)9月の銘が入っていたとされており、池田屋事件の死闘により物打の辺りから折れていたという記録がある。なお、早太郎は事件で負った怪我がもとで事件の2週間後に死去している。
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作刀
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制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、改銘後の忠広銘に分かれる。 初期は「五字忠銘」といって「肥前国忠吉」の銘がほとんどのようである。 秀岸というのは僧侶らしく、この人の書く字を真似て切った癖のある切銘のことを言う。 秀岸銘をやめてのち、「肥前国住人忠吉作」などと切る住人銘になる。 晩年は武蔵大掾を受領し名を「忠広」と改め「武蔵大掾藤原忠広」と切る。 重要美術品の刀、脇差しがある。息子の近江大掾忠広以下、幕末まで一貫して続く肥前刀の開祖といえよう。
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作刀
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肥前忠広作の刀を所持していた著名人として岡田以蔵がいる。元々は坂本龍馬の刀であり、龍馬の知人であった安田たまきの証言によれば龍馬が脱藩する際に雨にぬれないよう刀に油紙につつんで持ち出したとしている。『維新土佐勤王史』によれば、龍馬は道中金銭に苦労して刀の外装をいくつか売り払ったようであり、京都で再会した大石弥太郎からはその外見を怪しまれ「縁頭を売りて旅費にしたり」と打ち笑ったという。 さらに土佐勤王党の五十嵐幾之助の回顧談によると、その後肥前忠広は龍馬から岡田以蔵に貸し与えられ、本間精一郎暗殺の際に利用した際に切先(きっさき)を破損したとされる。回顧談当時は靖国神社遊就館に展示されていたとされているが現在は行方不明である。なお、以蔵の師匠に当たる武市半平太も初代忠広(忠吉)の門人である河内大掾正広作の刀を所持していたとされている。
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作刀
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刀 銘奥州仙台住山城大掾藤原国包 寛永五年八月吉日 重要文化財(1958年2月8日指定)、個人造(大阪府大阪市城東区) ^ “63 刀工国包の読み”. 要説宮城の郷土誌 (1983年)(仙台市民図書館,種部金蔵 編). 仙台市 (2016年). 2016年3月26日閲覧。 ^ “東北大学総合学術博物館『展示品あんない』13p”. 東北大学総合学術博物館『展示品あんない』13p. 東北大学 (2016年). 2016年3月26日閲覧。
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作刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 03:28 UTC 版)
国宝 短刀 銘則重(号 日本一)(永青文庫)健全さは群を抜き、松皮肌が目立たず、日本一の則重であろうことから「日本一則重」と呼ばれる。 重要文化財 太刀 銘則重(福井・藤島神社) 太刀 銘則重(個人蔵、1937年重文指定) 刀 無銘伝則重(所在不明、1938年重文指定) 刀 無銘伝則重(鹿児島神宮蔵、第二次世界大戦後GHQにより接収され所在不明) 刀 金象嵌銘則重磨上之本阿(花押)(大阪・法人蔵) 短刀 銘則重(大倉集古館) 短刀 銘則重(所在不明、1940年重文指定) 短刀 銘則重(大阪・法人蔵、1949年重文指定) 2014・2015年の文化庁による所在確認調査の結果、所在不明とされた物件については「所在不明」とした。
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作刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 15:00 UTC 版)
天国が作成したとされる刀はいくつか現存するが、そもそも天国の実在が確認できていないことから、真偽は伝承の域を出るものではない。以下、天国作刀の伝承又は記録が残されているものについて、真偽を問わず取り上げる。 天叢雲剣 『観智院本銘尽』「神代鍛冶」の項目では天国について「帝尺之釼 村雲の釼作」と注釈がなされている。三種の神器である天叢雲剣の作者であると解読されるが、熱田神宮ないし皇居に現存する草薙剣(形代も含む。)がそれに当たるかは不明である。 小烏丸 『観智院本銘尽』「大宝年中」の項目では、平家一門の宝刀として伝えられる小烏丸の作者と記載されている。現在、小烏丸と号する太刀としては、伊勢氏から宗氏を経て、1882年(明治15年)に宗重正から明治天皇に献上された大和国天国御太刀(小烏丸と号す)(皇位とともに伝わるべき由緒ある物、いわゆる御由緒物、御物番号29)があるが、無銘であるものの、天国作と伝えられる。なお本太刀は、その製作は奈良時代まではさかのぼらず、日本刀が直刀から反りのある彎刀へと変化する平安時代中期頃の作と推定されている。本太刀も、他のいわゆる御由緒物と同様に宮中祭祀での役割を担っており、同じくいわゆる御由緒物である山城国国綱御太刀(名物鬼丸)とともに、毎年11月23日に行われる新嘗祭にて使用されることとされている。 古今伝授大和国天国御太刀 皇室経済法第7条に規定する「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」(いわゆる御由緒物、御物番号35)であり、現在、皇室の私有財産(御物)として宮内庁侍従職が管理する。いわゆる御由緒物の太刀の多くは明治以降に明治天皇に献上されたものであるが、本太刀は歴代天皇御譲品として代々皇室に伝わる太刀である。いわゆる御由緒物の刀剣の多くは宮中祭祀など皇室内の私的儀式で役割を担っており、本太刀は、御物名からも明らかであるとおり、代々古今伝授の節に佩用されることとされている。本太刀の持つ性質のためか、これまで一般に公開された形跡は見受けられない。 亀戸天神社の宝刀 東京都江東区亀戸の亀戸天神社に社宝として伝わる太刀。『江戸名所図会』では、天国作の太刀として菅原道真が佩刀していたものが同社に伝わったと記載されている。本太刀には「一度鞘から抜き放てば決まって豪雨を呼ぶ」という伝承が残されている。 山名八幡宮の宝刀 群馬県高崎市山名町の山名八幡宮に社宝として伝わる刀剣。山名義範が本社を創建する際に本刀剣を奉納したと伝えられる。両刃の直刀であり、鎌倉時代末期のものとされる。 成田山新勝寺の宝刀 千葉県成田市の新勝寺に霊宝として伝わる刀剣。平将門の乱の平定のため開祖寛朝が朱雀天皇より賜ったものが同寺に伝わったと伝えられる。現在、毎年7月に行われる成田山祇園会では、本刀剣を用いた息災・魔除けの加持が行われている。
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作刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/09/24 08:30 UTC 版)
重要文化財に指定されている刀(銘「津田越前守助広 延宝七年二月日」、個人蔵)がある。その他、重要美術品に8件認定されている。また、都道府県、市町村で文化財に指定されているものが多い。
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作刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 15:32 UTC 版)
国宝 刀 金象嵌銘 天正十三十二月日江 本阿弥磨上之(花押)所持稲葉勘右衛門尉(稲葉江)(山口・岩国美術館) 刀 無銘 義弘(富田江)(前田育徳会) 重要文化財 刀 金象嵌銘 義弘 本阿(花押)本多美濃守所持(桑名江)(京都国立博物館) 刀 朱銘 義弘 本阿(花押)(松井江)(佐野美術館) 刀 無銘 義弘(村雲江)(個人蔵) 刀 無銘 義弘(豊前江)(所在不明) 刀 無銘 義弘(五月雨江)(徳川美術館) 義弘の現存作刀で在銘のものは皆無である。上記の「金象嵌銘」「朱銘」は本阿弥家による鑑定銘であり、義弘本人が切った銘ではない。 2014・2015年の文化庁による所在確認調査の結果、所在不明とされた物件については「所在不明」とした。
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作刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/05 09:29 UTC 版)
重要文化財に1振り指定されている(太刀 銘「一竿子忠綱彫同作 宝永六年八月吉」、京都国立博物館蔵)e國宝 国指定文化財等データベース)国宝指定時(大正6年(1917年)4月5日)の所有者は、徳島県徳島市の国瑞彦神社(神社創建時に蜂須賀家より奉納されたという由来がある)。 都道府県、市町村で文化財に指定されているものもある。「刀 表銘 粟田口一竿子忠綱 裏銘 正徳三年二月吉日」 彦根藩13代・井伊直弼指料 彦根城博物館蔵 「銘表 一竿子忠綱彫同作/銘裏「元禄十三年二月日/彫表・剣巻龍/彫裏・梅に竹」香川県立ミュージアム蔵 「脇差 銘表 粟田口一竿子忠綱彫同作/彫表・玉追い龍/彫裏・龍」香川県立ミュージアム蔵 天明4年(1784年)3月24日に江戸城中で老中・田沼意次の子、若年寄・田沼意知を佐野善左衛門政言が暗殺した際に用いられたのが二代忠綱の大脇差と言う。当時、田沼時代と呼ばれるほどの権勢を誇り、収賄の悪名高かった田沼意次に一矢報いたことから、佐野は「世直し大明神」と崇められ、またその指料であった二代忠綱の刀も大いに人気を集めた。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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作刀
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刃文は小糠肌と呼ばれるよくつんだ地鉄に直刃を焼いた作が多く、互の目乱などの乱れ刃もある。肥前刀では父の初代忠吉、子の陸奥守忠吉に次ぐ技量といわれる。
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作刀
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三条宗近作とされる主な日本刀(実在が確認されていないものや本物が確実視されていないものも含む。)は以下のとおり。日本国やその地方公共団体が指定する文化財については、指定名称で記載した。 太刀銘三条(名物三日月宗近) 国宝、徳川宗家伝来品、東京国立博物館所有。詳細は当該記事を参照。 太刀銘三条 岐阜県不破郡垂井町南宮大社所有。鎬造、庵棟、小切先、反り高く踏ん張りがある。地鉄は小板目肌が約(つ)まり、地沸(じにえ)一面に付き、映り立つ。刃文は細微な沸出来の小乱れ、その間にやや長い尖刃現れ、足繁く入る、表裏に棒樋(ぼうひ)を掻き流し樋先上る。帽子は二重刃で匂口やや沈み、小丸にわずかに返っている。茎(なかご)は生ぶ、勝手下がりの鑢目を切り、佩裏(はきうら)の目釘穴の下に「三條」と銘を切る。長さ2尺5寸8分5厘、反り1寸5厘、元幅9分。昭和初期に赤坂町の実業家である矢橋亮吉から同社に奉納されたものである。重要文化財(1934年(昭和9年)1月30日指定)。同社は、毎年文化の日(11月3日)に一般公開している。 太刀銘宗(以下一字不明)伝宗近 福井県小浜市若狭彦神社所有。鎬造、庵棟、小切先、反りが高く、先反浅い。地鉄は極めて細美、板目肌で最も約(つ)まり、所々で大肌交じり、細かに沸(にえ)付く。刃文は小乱れ、匂深く小沸付き、表腰に梵字、裏鎬地に腰樋を刻む。茎は生ぶ、判然としないが勝手下がりの鑢目を切り、佩表に大振りで二字銘があり、上は「宗」、下は「近」と略判読されるが、半ばに目釘穴がかかり、朽ち込んでいる。長さ2尺6寸1厘、反り1寸6厘、元幅9分2厘。東京国立博物館寄託。1795年(寛政7年)11月1日、小浜城代の酒井忠為が病気平癒の祈願の際に奉納したとされる。重要文化財(1912年(明治45年)2月8日指定)。 海老名宗近 短刀。長さ1尺1寸2分。足利将軍家第8代足利義政所有として、正月の年中行事の儀礼の際に着用されていたと記録される。当時の刀装は、柄鞘あわせて1寸5・6分、赤銅の金具に、梨子地の鞘と柄、目貫には桐丸焼付、笄は銅製といった具合であった。その後豊臣秀吉に渡り、大坂の陣の際に消失したとされる。名の由来は、地名(現在の神奈川県海老名市)又は人名からとされる。享保名物帳「古来之名物焼失の部」記載の名物である。徳川美術館には「宗近」銘の焼身の短刀があり、同館では「名物海老名小鍛冶」と称している。 鷹巣三条 短刀、銘は「三条」。長さ1尺4寸。豊臣秀吉が所有し、後に島津氏に伝来したとされる。名の由来は、いずこかの山中にある大樹のタカの巣で見つかったことからとされる。享保名物帳記載の名物である。別名、鷹巣宗近。 小狐丸 太刀。九条家伝来品だが、所在不明。詳細は当該記事を参照。 松代藩真田氏伝来の太刀 太刀。鎺元までの長さ2尺5寸1分、重さ138匁。松代藩真田氏所有の太刀として、江戸時代末期(1854年以降)の同氏所有の刀剣をとりまとめた『御腰物御元帳』(長野県立歴史館蔵『石坂家文書』中)に「三条小鍛治宗近御刀御白鞘」として記載されている。真田宝物館に保管された折り紙その他の文書によれば、天明4年(1784年)正月に下氷鉋村(現・長野県長野市稲代町の一部)在住の杢左衛門が同藩主に献上したとされる。同年12月3日付け本阿弥光久による折り紙では金五百枚の代付がされている。刀身は奈良県の某家に所蔵されるが、今日的には銘の真偽は不明。銘は太刀裏に「宗近」。[要出典] 八代城主松井氏伝来の太刀 太刀。一般財団法人松井文庫所有。無銘ではあるが、宗近作として熊本藩八代城主松井氏から伝来している。附として17世紀に作成された黒漆鞘刀拵が現存する。 山城国宗近御太刀 太刀。銘は「宗近」。皇位とともに伝わるべき由緒ある物(いわゆる御由緒物)であり、現在宮内庁侍従職が管理する皇室の私有財産(御物)である。小浜藩酒井氏に伝来してきたものを、1909年(明治42年)に、第16代当主の酒井忠道が明治天皇へ献上したとされる。その後、皇室所有の刀剣は、第二次世界大戦後の財産税や昭和天皇崩御の際の相続税として国庫に物納されたが、本太刀は小烏丸等と同様に引き続き御物として取り扱われている。御物の刀剣の多くは宮中祭祀などで役割を担っているが、本太刀も1月7日の昭和天皇祭で使用されることとなっている。 太刀 伝宗近 福岡県福岡市筥崎宮所有。鎬造、庵棟、細身であり、地鉄は杢目肌に板目肌交り、刃文は直刃、表裏に棒樋を刻む。茎は生ぶで、目釘穴が2個ある。長さ約79.4cm、反り約3cm。同社では三条宗近の作と伝わっており、戦国大名の大内義隆が1543年(天文12年)に同社の本殿、拝殿等を再建した際に寄進されたことを告げる寄進状が共に保存されている。福岡県指定有形文化財(1956年(昭和31年)1月16日指定)。現在、同社の宝物館に保管されている。 小国神社所有の太刀2口 太刀。静岡県周智郡森町小国神社所有。同社では、1572年(元亀3年)、武田信玄軍と織田信長・徳川家康の連合軍が争った三方ヶ原の戦いの際に、徳川家康が戦勝祈願として三条宗近の作とされる本太刀を同社に奉納したと伝わっている。 太刀銘伝三条小鍛治宗近作 太刀。愛媛県新居浜市一宮神社所有。本太刀は、同社の宝物として伝わっている。新居浜市指定文化財(1965年(昭和40年)6月3日指定)。 三条宗近銘太刀 太刀。戦国時代、出雲国意宇郡宍道(現在の島根県松江市宍道町)周辺を本拠としていた武将の宍道政慶は、当時その一体を支配していた毛利氏の政策で長門国阿武郡に転封となったが、当時3歳の一人娘を連れて行くには忍びないとして宍道の回船問屋小豆屋に預けることとした。その際、金襴の打ちかけとともに娘に持たせたのが本太刀であるとされ、現在も同家に伝わっている。なお松江市によれば、本太刀の作者は本記事で記載される三条宗近ではなく、室町時代の作ではないかしている。松江市指定文化財(1989年(平成元年)7月1日指定)、なお美術工芸品ではなく歴史資料として指定されている。 八多神社所有の脇差 脇差。兵庫県神戸市北区八多神社所有。社伝では、同社は宗近が崇拝していた神社であったとしており、宗近から「日本一」と号する日本刀が奉納されたと伝わる。また摂津名所図会では同地周辺に宗近の旧屋があったと記載されており、宗近と縁があるとされる神社である。現在、同社には、銘に宗近の名が切られた脇差、白鞘に宗近が奉納されたと書かれた脇差、宗近が奉納したとされる脇差が保管されている。なお、いずれも真偽は定かではない。 三条小鍛冶宗近作太刀 太刀。「太刀 三条小鍛冶宗近作 二尺一寸 一腰 蓮祖の所持諸弘通の節之レを帯す、北条弥源太殿より之レを献ず」(富士大石寺明細誌)日蓮聖人所持。 三条小鍛冶宗近作御太刀 太刀。(公財)占出山保存会所有。祇園祭の山鉾の一つ、占出山の御神体、神功皇后が佩く太刀。太刀について、占出山町文書によると、天保五年(1834年)、京都の洛北大原郷内野村に嵯峨天皇の劔を打った真守の作と伝わる古刀を持っていた山内玄達という人物が鍛刀旧跡近くの飯道大権現に古刀を奉納すべく研磨を依頼したところ、三条宗近の銘がでてきた。そこで、宗近作と名高い長刀鉾にちなみ、占出山の神功皇后宮に山内法橋玄達が奉納すると書かれている。平成30年の祇園祭山鉾連合会の調査報告書によると、「太刀は、京都の古刀の特色を有しており、刀に漢字2文字の銘を認め、見ようによっては「宗近」とも読める。また、件の奉納経緯の譚の信憑性は高い。しかし、もっとも宗近の在銘の基準作はほとんど皆無に近く、これを宗近の真作と認めるのは容易でない。」とされ、この太刀が三条宗近作の太刀であるかは分かっていない。なお、宵山で展示されている太刀は、山鉾巡行用の複製品(国の重要有形民俗文化財)で、実物は京都国立博物館に寄託されている。
※この「作刀」の解説は、「三条宗近」の解説の一部です。
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