関ヶ原の戦い
関ヶ原の合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 21:28 UTC 版)
@media all and (max-width:720px){body.skin-minerva .mw-parser-output div.mw-graph{min-width:auto!important;max-width:100%;overflow-x:auto;overflow-y:visible}}.mw-parser-output .mw-graph-img{width:inherit;height:inherit} [全画面表示] 関連地図 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては東軍に与した。 上杉征伐のために黒田城を出陣した直盛は、木曽路から高崎城(井伊直政居城)を経て宇都宮に至る。小山評定で諸将とともに石田三成討伐の先鋒を承り、7月29日に小山を進発し、8月9日に黒田城に帰城する。『一柳家記』によれば、石田三成が一柳家に密書をしたため、小川祐忠家臣の稲葉清六(小川は直盛の姉婿で、稲葉は直末の旧臣)が持参したが、黒田城の留守を預かっていた直盛の伯父の一柳正斎が誘いを一蹴し、密書は井伊直政に渡されたという。 8月21日、清州城で福島正則・井伊直政・池田輝政・本多忠勝・有馬豊氏・山内一豊らと合流。木曽川渡河の評定があり、直盛は同日亥の刻(夜10時ごろ)に木曽川の河田の渡しの南岸に陣取りをした。22日朝の軍議では池田輝政を先陣として渡河することが提案されたが、直盛は納得せず、輝政と先陣を争った。『一柳家記』によれば、「居城よりわずか1,2里にある領知の川」を渡るのであるから先陣を譲ることはできないと激怒し、輝政に詰め寄ったという。山内一豊の仲裁によって、池田家家老の伊木清兵衛が小人数を率いて先に渡り、一柳勢(800名ばかり)、池田家の本隊の順で渡ることで落着した。東軍は一旦中洲に進出して敵情を視察し、一柳勢は池田勢よりもやや川下を渡渉して対岸の米野に到達、西軍織田秀信勢と交戦を開始して「一番乗り」を果たした。『寛政重修諸家譜』では、この辺が所領に近かったために川の状況を知っており、前夜のうちに士卒に川の浅深を測らせていたために、木曽川を先陣を切って渡ることができたという(河田木曽川渡河の戦い)。 直盛は米野から川手近くまで敵を追撃するが、深田に進路を阻まれ、また織田方が川手の町に火を放って進撃を阻止したことから、池田輝政ら諸将が陣取りを行っている米野まで撤収し、諸将と合流した(米野の戦い)。なお、この時は兼松正吉が一柳直盛の旗下に属しており、『一柳家記』は一柳家の武功に関する証人として兼松の名を挙げている。 23日、諸将とともに岐阜城攻めに加わり、瑞龍寺山砦を攻撃した(岐阜城の戦い)。岐阜攻城戦後、木曽川渡河の先陣と瑞龍寺山砦攻撃が一柳直盛の戦功として認められた。27日に家康の命によって、大垣と佐和山の中間に位置する長松城の守備にあたった。9月1日付けで、家康から藤堂高虎・黒田長政・田中吉政・一柳直盛宛ての書状が出され、軍功を賞された 関ヶ原戦後、本戦で東軍に寝返った小川祐忠の処遇が問題となった。直盛は義兄にあたる祐忠の助命を井伊直政に働きかけたが、子息の左馬助が三成と格別に懇意であったことが家康に忌避されたといい、結局祐忠は改易された。 なお、関ヶ原の合戦後も黒田城を拠点とする直盛の領国が短期間ながら存在したため、二木謙一監修『国別 藩と城下町の事典』では「黒田藩」として項目を立てている。
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関ヶ原の合戦
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「相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「関ヶ原の合戦」の解説
慶長5年(1600年)、相馬封境の警備を固めた。6月17日、政宗は大坂を経ち帰途に着く。義胤は政宗の相馬領通過と宿泊を承諾した。7月、徳川家康が上杉景勝を攻めんとして会津征伐軍を挙げると、畿内では石田三成が挙兵し、9月15日の関ヶ原の戦いに繋がった。日付不明であるが、同年、義胤に三男(越中尚胤)が出生。長女は岩城貞隆(佐竹義重の三男)の正室となっている。 慶長6年(1601年)1月11日、伊達政宗が新たな居城として仙台城の城普請を始めている。1月20日、家臣水谷胤重の進言によって伊達勢とともに上杉景勝領の二本松に夜襲を仕掛けさせた(月夜畑の戦い)。なお、この年、義胤の親族に訃報が続いている。3月、弟・郷胤死去。5月、三胤室・江戸崎御前死去。10月、父・盛胤死去。
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関ヶ原の合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 10:16 UTC 版)
秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。諸説あるが東軍西軍どちらにつくかの合議を犬伏で行ったため、「犬伏の別れ」として語られることが多い 東軍の徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、38,000の徳川軍を城に立て籠もって迎え撃った。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った。 詳細は「上田合戦#第二次上田合戦」を参照 また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政は葛尾城に井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。 9月15日、西軍は秀忠が指揮を執る徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう。初め高野山にある蓮華定院に入り、次いで九度山に移った。 蟄居中の慶長16年(1611年)に昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った。
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