関ヶ原の役以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 09:00 UTC 版)
蜂須賀家政に強く請われその客将となり、阿波国徳島に移り住んだ。この間に家政の依頼で徳島城表御殿庭園を作庭している。 重安の妻は、秀吉の妻・高台院の従弟である杉原長房の娘で、(幸長の父)浅野長政と(幸長の子)浅野長晟はそれぞれ長房の娘を養女にしていたため、紀州藩主浅野幸長と重安は重縁の関係にある姻戚であった。その縁により浅野家の家老となり、1万石を与えられた。家臣になる際には、徳川家康の許しも得た上で、還俗している。 和歌山で浅野家に仕えている間、和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園を作庭している。 慶長19年(1614年)の大坂の陣(冬の陣)では浅野長晟に従って従軍。翌20年(1615年)の夏の陣、樫井の戦いでは敵方の大将の1人である塙直之の首級を挙げるなど戦功を立て、将軍徳川秀忠及び大御所家康から激賞された。 元和5年(1619年)、浅野氏が和歌山藩から安芸広島藩に移封されると、重安も芸州佐伯郡小方村(現大竹市小方)1万2,000石に移封された。 以後は、茶道と造園を趣味として生活を送り、浅野家の別邸縮景園を作庭した他、江戸幕府(尾張徳川家)に請われて名古屋城二の丸庭園の作庭も担当した。また、寛永元年(1624年)2月に、浅野家家臣の亀田高綱が上田と衝突して浅野家から退去している。 重安の数々の武功は世間にも広く知られており、江戸幕府(徳川将軍家)より直参出仕を促されたが、重安はそれを固辞して浅野家に留まった。代わりに嫡男の重秀を寛永9年(1632年)に徳川家に出仕させた。重秀は近江野洲郡(現・守山市服部町)に知行を与えられ服部村に服部陣屋(服部城)を構えた。子孫は代々相続し、大身旗本として江戸幕府に仕えた。次男の重政が広島藩浅野家の家老職を相続し、上田家は藩士として続いた。三男(養子)の可勝は肥後藩細川氏に仕えた。
※この「関ヶ原の役以後」の解説は、「上田重安」の解説の一部です。
「関ヶ原の役以後」を含む「上田重安」の記事については、「上田重安」の概要を参照ください。
- 関ヶ原の役以後のページへのリンク