関ヶ原の戦いから江戸時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:10 UTC 版)
「加藤清正」の記事における「関ヶ原の戦いから江戸時代」の解説
秀吉の死により、清正らは日本に帰国することになった。すぐに帰国に応じたことからも、清正も朝鮮出兵が無益な戦いであることを認識していたものと考えられる。帰国した清正は向こう数年の百姓の夫役を停止するなどの領国建て直し策を出す。また、朝鮮出兵時から続けられていた国内外を舞台にした投機的な取引によって、収取された米や大豆、麦などの農産物を売買し、少しでも財政難を解消することにも努めた。ところが、現実には緊迫した政治情勢の中で熊本城の改築などの軍事的対応が優先され、領国の再建は先送りされることになる。 慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。 慶長4年(1599年)3月28日、前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗するとさらに家康への接近を強めた。 ところが、島津氏の重臣である伊集院氏が主家に反旗を翻した庄内の乱において、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚した。庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた案件であり、清正の行動は家康からすれば重大な背信行為であった。家康は清正の上洛を禁じて、清正が上方に向かった場合にはこれを阻止するように有馬則頼に命じた。 慶長5年(1600年)、清正は大坂に入り、2月13日に有馬則頼と会い(『鹿苑日記』)、その前後には家康とも対面しているようであるが、家康の怒りは収まらず、清正には会津征伐参加を許さず、国元に留まるように命じている。同年9月の関ヶ原の戦いの際に清正が領国である肥後にいたのは、家康によって事実上の謹慎を命じられていたためである。 また、家康の会津征伐の発動に清正が強硬に反対したが、家康は同意せずに清正に対して立腹したとされている。 こうした事情から関ヶ原の戦い当初は家康と疎遠となった清正が西軍につく事態も想定され、毛利輝元らによる説得工作が行われた。だが、清正は家康に懇願して大坂にいた家臣を会津征伐に出陣する家康の下に派遣しており、石田三成らの挙兵を知った家康はその家臣を肥後に帰して、清正の東軍加勢を認めた。その間にも清正は黒田如水と連絡を取って家康ら東軍に協力する約束を交わし、家康の書状を携えた家臣が帰国した8月後半から黒田軍とともに出陣、小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、小西旧領の肥後南半を与えられ、52万石(実質石高は79万石)の大名となる。関ヶ原の戦い一年余の後に、替地充行状が多発されるようになり、戦時色を払拭し恒常的、安定的な領国体制の再編に向けて動き出していたことが窺える。 慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されている。 慶長10年(1605年)、従五位上・侍従兼肥後守に叙任される。 慶長11年(1606年)、徳川四天王の一人榊原康政の嫡男・康勝に娘のあまを嫁がせた。だが、この年に康政が急死して康勝が館林藩を継いだため、清正がその後見人として藩政をみた。また、江戸幕府の成立後、豊臣氏がかつて日本各地に設置した蔵入地は解体される傾向にあったが、清正が統治する肥後国の蔵入地は依然として残されて年貢が大坂城の豊臣秀頼の下に送付されていた模様で、清正の死の翌年に毛利氏が清正死後の熊本藩を内偵した記録である『肥後熊本世間取沙汰聞書』によれば同藩には(豊臣氏)蔵入地3万石が設置されたままであることが記されている。 一方、熊本藩内では熊本城と麦島城の改築、旧加藤・小西両領の境界地帯を中心とした支城の廃止などが行われ、最終的には熊本城と7つの支城に整理された。 慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張名古屋城の普請に協力した。 慶長16年(1611年)3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋した。しかし、ここで重要なのは清正は秀頼の護衛役ではなく、既に次女・八十姫との婚約が成立していた家康の十男・徳川頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨んだことである。その一方で、清正は頼宣とともに秀頼の豊国神社の参詣、鳥羽までの見送りに随行しており、家康としても徳川・豊臣の和解のために清正の役割に期待する側面もあったとみられる。 帰国途中の船内で発病し(後述)、6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。
※この「関ヶ原の戦いから江戸時代」の解説は、「加藤清正」の解説の一部です。
「関ヶ原の戦いから江戸時代」を含む「加藤清正」の記事については、「加藤清正」の概要を参照ください。
- 関ヶ原の戦いから江戸時代のページへのリンク