関ヶ原の戦いと中国路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 01:49 UTC 版)
「関ヶ原の戦い」も参照 慶長3年8月(1598年9月)、秀吉が死去し、翌慶長4年閏3月(1599年4月)には豊臣秀頼の傅(もり)役であった前田利家が死去して、豊臣政権内部の均衡がくずれた。五奉行のひとりであった石田三成は、家康の会津上杉討伐を、むしろ奥羽の上杉景勝と提携して家康を挟み撃ちする絶好の機会ととらえて決起した。まず、慶長5年7月(1600年8月)、家康の会津征討軍に加わるため越前敦賀を発った大谷吉継と佐和山城(滋賀県彦根市)で会見して、旧知の吉継を味方につけた。7月12日、大和国郡山城城主で五奉行のひとりであった増田長盛はこれを家康方に報じたが、増田と長束正家、前田玄以の三奉行は同時に、毛利輝元にも至急大坂城に登城するよう求めた。大坂城にあった淀殿もまた、三奉行とともに石田・大谷の行為を謀反とみなし、家康方に報じて大坂への帰還を要請した。家康と輝元はこのとき、ともに豊臣政権の五大老を構成する2人として謀反の鎮圧と秀吉の遺児秀頼の守護とを期待されたのであり、淀殿、あるいは三奉行からすれば上杉氏もまた謀反人であった。すなわち、家康は公儀権力として謀反人征伐を旗印に出陣したことを自他ともに認めていたのであり、それゆえ豊臣恩顧の諸大名も動員できたのであった。 ところが、三成は三奉行に自分に与力することを説得し、また、7月15日には安芸国広島城を出発して翌7月16日には大坂に到着した毛利輝元を味方に引き入れて、西軍の総大将としてかつぎあげることに成功した。宇喜多秀家もまた、これに与同した。輝元はただちに家康の留守居役を放逐して大坂城西の丸に入り、そこに集まった西軍諸将は、7月17日付で「内府ちかひの条々」と題する対家康弾劾文を諸国の大名に書き送った。西軍はまた、会津に向かった諸将の妻子をただちに人質として大坂城に引き入れる作戦をとったが、丹後宮津城主細川忠興夫人のガラシャがこれを拒否して死を選ぶなどして、この作戦は失敗した。19日、小早川秀秋・島津義弘・宇喜多秀家らが鳥居元忠のまもる伏見城(京都市伏見区)を攻めたが、元忠のはげしい抵抗により、陥落したのはようやく8月1日になってからのことであった。いっぽう伏見城から元忠が発した西軍挙兵の報は、7月24日、下野国小山(栃木県小山市)に着陣していた家康のもとに達し、これに対し、福島正則・黒田長政・山内一豊ら豊臣恩顧の大名は、家康を大将とする会津征討軍の反転西上をむしろ主唱した。その後、最終的には決戦の舞台が美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)にうつされた。 慶長5年9月15日(グレゴリウス暦1600年10月21日)の関ヶ原合戦は、東軍の井伊直政・松平忠吉隊が西軍の宇喜多秀家隊に攻めかかったことで戦端が開かれ、また、宇喜多隊と福島隊との間の激しい攻防は、関ヶ原本戦における激闘のなかでもその最たるものとして、つとに知られる。しかし、輝元の派遣した毛利秀元隊および吉川広家隊は動かず、最後には、小早川秀秋の裏切りが決め手となって西軍は敗退、東軍に大勝利をもたらした。 なお、西軍決起の真相については、決起の主導者が石田三成ではなく、実は宇喜多秀家であるという見方がある。というのも、7月5日という早い時点で、秀家が豊国神社で出陣の儀式を執りおこない、また、その2日後には秀家室(豪姫)が北政所の使者を同道して神楽を奉納しているのであって、諸儀式の準備や北政所への連絡などを考えれば、秀家決起の意志表明のほうが三成挙兵の意志表明よりも時間的に先んじていると考えられるからである。秀家主導説に立つならば、むしろ、秀家に強要された三奉行がやむなく毛利氏にはたらきかけ、それを受けて策動をはじめた安国寺恵瓊が輝元の出馬を工作し、また、輝元出馬の結果を既成事実にして、決起をためらう三成を無理やり自らの路線に引き入れたという見方が可能になる。 また、毛利輝元についても、従来いわれてきたような、単に他律的あるいは形式的な西軍の盟主ではなく、むしろ意欲的・計画的な決起の主導者のひとりであったという見解がある。たとえば、7月12日に発せられた三奉行の上坂要請の書状は、当時、書状が大坂から広島まで通常3日を要することからすれば、15日に到着した可能性が高いものであるが、輝元は、15日のうちに広島を舟で出発しているところからみれば、彼は上坂(大坂行き)をほぼ即断しているのである。さらに翌日には大坂城に到着して、家康留守居を早々に追い、公儀権力の要として豊臣秀頼を手中にするという挙に出ている。このような、大坂渡航に用いる舟・兵糧・武具などの手配や家臣団への下知、および大坂城に入ってからの親徳川派の動きを封じる手法の迅速さ、手際のよさは、三成・吉継の計画に一枚加わっていた輝元の予定の行動だとみることが可能である。
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