関ヶ原の戦いと晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 10:04 UTC 版)
慶長5年(1600年)1月27日、右京大夫に任官される(藤原姓)。同年の関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況でもあり、三男・信枚と共に東軍として参加した。本戦にも参加したとする説があり、美濃国大垣城攻略に功があったと伝わる。しかし当時、嫡男の信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると石田三成の子の重成らを連れて津軽に帰国している。これらを考えると、つまりは真田氏らと同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考えられる。そのためか戦後の行賞では上野国大舘2,000石の加増に留まった(上野領については満天姫・大舘御前の項目参照)。 関ヶ原出陣中に家臣が反乱するのを恐れ、出陣前に一族である重臣の森岡信元を暗殺させるが、結局、合戦中に国許で反乱が起こって居城の堀越城を占拠された。しかし西軍敗戦の報が伝わると、反乱方は戦意喪失の上で追討されている(詳しくは尾崎城の歴史を参照)。その後も家中騒動にて堀越城は簡単に占拠されたりなどしたため、慶長8年(1603年)には岩木川と土淵川に挟まれた高岡(鷹岡)に新城を着工した(のちに同地は弘前と改名され、城は弘前城となる)。ただし城の建設はあまり進まず、次代の信枚に引き継がれた。 慶長12年(1607年)、病に伏せた嫡男の信建を見舞うために上洛するが、到着前の10月に信建が病死し、自身も12月に京都で死去した。享年58。 為信の名代を務めるなど、次代として確実視されていた嫡男の信建と為信自身が相次いで死去したため、家督は三男の信枚(次男の信堅も既に死亡していた)が継いだものの、翌年、信建の嫡男熊千代(大熊)が金信則や津軽建広ら信建派の家臣に推されて、正嫡を主張し幕府に裁定を求めるお家騒動が勃発した(津軽騒動)。幕府は信枚を正嫡として公認し、建広らは追放されお家騒動は収まった。
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