関ヶ原の戦いにおける捨て奸とは? わかりやすく解説

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関ヶ原の戦いにおける捨て奸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 08:34 UTC 版)

捨て奸」の記事における「関ヶ原の戦いにおける捨て奸」の解説

関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊して周り徳川家康方の敵だらけの中で陣を引くにあたり300程に減っていた兵数敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法用いて伊勢街道経由戦場から離脱図った。「捨て奸」は敵に視認しづらくするのと、鉄砲射撃時の命中率上の為に退路点々配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊指揮官狙撃してから敵軍突撃するものであった徳川方松平忠吉井伊直政本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃した忠吉直政重傷負い、忠勝が落馬直政はこのとき受けた傷がもとで病死至ったと言われる島津義弘らは養老山地抜けて堺に至り海路経て薩摩帰りつくことができた。 高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢島津だからこそ効果的な運用可能なこの戦法だったが、義弘身代わりとなって甥の島津豊久家老長寿院盛淳多く犠牲出し生きて薩摩戻ったのは義弘始めとした80余名であった[要出典]。 余談ではあるが、島津の退き口行われた捨て奸は、義弘家老達に指名された者より志願者の方が多かったという。

※この「関ヶ原の戦いにおける捨て奸」の解説は、「捨て奸」の解説の一部です。
「関ヶ原の戦いにおける捨て奸」を含む「捨て奸」の記事については、「捨て奸」の概要を参照ください。

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