関ヶ原の戦いへの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:02 UTC 版)
「関ヶ原の戦い#四国」も参照 最初に「四国国分」の沙汰がなされた15年後の慶長5年(1600年)、美濃国の関ヶ原で「天下分け目」の関ヶ原の戦いが起こったが、このとき大坂城にいた毛利輝元は四国地方への出兵を命じている。これは、秀吉亡きあとの西国を代表する五大老の一人として、また、西軍の総大将としての派兵命令であり、自身が豊臣政権における公儀権力の代行者であることを、その根拠としていた。すなわち、土佐の長宗我部氏については軍役をもって動員し、讃岐の生駒氏や阿波の蜂須賀氏には圧力を加えて当主の生駒親正・蜂須賀家政を高野山に追放し、家臣団を派遣して両国の占領におよんだ。また、徳川方についた加藤嘉明・藤堂高虎の領国であった伊予に対しては積極的に調略をおこない、とくに加藤領に対しては河野氏の惣領格とみなされていた宍戸景世(河野通軌か)を大将として直接兵力を送り込んでの激戦となった。美濃での関ヶ原本戦が1日で東軍勝利に決したため、撤兵したものの、輝元のこうした行動には「四国国分」の強い影響がみてとれる。
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