関ヶ原の戦い以降の伊達政宗の侵略
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「松川の戦い」の記事における「関ヶ原の戦い以降の伊達政宗の侵略」の解説
関ヶ原の戦い後、伊達政宗は徳川家康からみだりに軍勢を動かすべからずとの命を受け、心ならずも岩手山城へ引き返したが、上杉領への侵略やみがたく、家康の下知をまたずに慶長5年(1600年)10月6日、本庄繁長が立て籠もる福島城へ押し寄せた。これを察知した福島城兵の永井善左衛門が伏兵を討ち取ったため、政宗は白石まで引き返した。政宗は翌7日、長井郡湯原へ出ようとしたが、上杉方の甘粕清長が付近を警戒しており、さらに上杉景勝が2万ばかりの大軍で境目まで出陣するという報を知り引き返した。景勝もまた会津へと引き返した。 翌慶長6年(1601年)になっても政宗の侵略は続いた。慶長6年2月7日、政宗は伊達郡へ侵攻したが、本庄繁長、宮代砦守将八内図書の厳しい抵抗により撃退された。 3月24日政宗は再び出馬し、25日に白石城、28日には福島城に襲来した。福島城が容易に落ちないと見た政宗は、梁川城へ矛先を転じようとしたが、梁川城の須田大炊は29日に伏兵をもって迎撃、政宗勢は四方を取り囲まれて大敗し、散々に敗走していった。
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