梁川城
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梁川城(やながわじょう)は、福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡にあった日本の城(平山城)。国の史跡に指定されている(指定名称は「伊達氏梁川遺跡群」)[1][2]。
- ^ 令和元年10月16日文部科学省告示第77号。
- ^ 史跡等の指定等について(文化庁報道発表、2019年6月21日)。
- ^ 福島県では一般的に、鶴ヶ城といえば会津若松市の若松城を意味する。
- ^ ただし文書上で明確なのは11代持宗 - 14代稙宗。
- ^ 現在の福島県伊達郡桑折町、伊達市にあった。伊達氏が本拠地を移すと米沢、会津、岩出山へと一緒に移転され、現在の仙台市の北山五山へとつながる。
- ^ 佐藤家忠は福島を本貫とする地侍(信夫佐藤氏18代目)。古川重吉は信濃衆(更級郡塩崎城主・小笠原氏の出身)で不仲説もあるが、現在は西根神社に、信達総鎮守として共に祀られている。
- ^ 西根堰は福島市北部から伊達郡桑折町、伊達郡国見町を経て伊達市に至る農業用水路。21世紀の現在も維持管理されている。下堰(したぜき)と上堰(うわぜき)の2つの水路があり、灌漑面積は約1,400ha。
- ^ 当時、米沢藩の実高は51万石余に増加している。
- ^ 「尾張藩連枝より以前の天領期間中に破却され、松平氏の家老が新たに陣屋を建てた」という説もあるが、御三家筆頭の連枝をいきなり無城大名にはしにくい点(少将に上り伺候席が大広間であり、松平通春のように尾張藩を継ぐ場合もある)、伊達郡は仙台の伊達氏の本貫地であり警戒が必要である点から異論もある。
- ^ 本丸には大きな城址碑と雷神の祠がある。城址碑には「大篠氏居城 綴麻森 袖ヶ崎城址」と刻まれている
- ^ 『日本城郭大系』の図(大枝城)を参照
梁川城
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梁川城は、江戸時代になって廃城となり、その後梁川藩の陣屋として使われた。明治維新後は学校敷地として使われ、現在、城跡は、梁川中学校、梁川高等学校として使用され、近隣にも土塁や掘の遺構がある。何度か発掘調査が行われ、梁川小学校校庭の片隅に中世庭園も復元され、梁川城跡は県指定史跡となっている。鎌倉時代から室町時代の伊達氏歴代の居城として有名であるが、現在の遺構はむしろ伊達政宗移封後の、蒲生氏時代または上杉氏時代に、対伊達氏政策で防備を強化して改築されたものであると考えられている。
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