上杉氏の時代
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慶長3年(1598年)、蒲生秀行が宇都宮に移され、福島城を含む信夫郡も会津120万石・上杉景勝の領地となる。当初は水原親憲が福島城の城代を務めていたが、旧領である信達(しんたつ)両郡の奪還を望む伊達氏との緊張が高まる時期には、福島城主として本庄繁長が派遣され、それと入れ替わる形で水原親憲は猪苗代城へと移された。その後、1600年(慶長5年)に伊達政宗が信夫郡に侵攻した際に、福島城の北辺一帯(現在の福島市街地)は戦場になっている(松川の戦い)。 関ヶ原の戦いで敗れた上杉氏の米沢30万石への減封後も、本庄氏は重臣として福島城の城代を務め、繁長の後は充長、重長と続く。その後、信夫郡代官となった芋川正親は再び大森城を拠点とした。福島・大森城(及び伊達郡の梁川城)の下には、奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏が置かれ、上杉定勝は彼らを肝煎として、福島盆地に西根堰(にしねぜき)水路を完成させ、耕地面積を飛躍的に拡大した。
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上杉氏の時代
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江戸幕府成立後も伊達郡は引き続き上杉氏領となり、梁川城には上杉氏の家臣(須田氏など)が置かれた。 梁川城(及び信夫郡の福島城)の下には、奉行として佐藤氏や小笠原(古川)氏などが置かれ、上杉定勝は彼らを肝煎として、福島盆地に西根堰(にしねぜき)水路を完成させ、耕地面積を飛躍的に拡大した。
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上杉氏の時代
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現在の陣屋通りの北東には保原城が築かれ、桃山時代に会津に入部した上杉景勝は保原城の改築を行っている。江戸時代には引き続き上杉氏米沢藩の所領となり、保原城は大石氏が居城した。城ノ内、鉄炮町などの地名は、城下町の名残りをとどめている。 保原城主の大石氏と郡代の平林正恒は、開田・用水堰の開削を積極的に奨励した。保原の肝煎・渡辺新左衛門および、梁川代官・堀江与五衛門らは、慶長10年(1605年)砂子(いさご)堰を築きあげ、保原地方の肥沃な田畑の基礎をつくっている。1636年には大石氏に代わり、小越清道が保原城の城代となって派遣された。 寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、本来ならば改易になるところを吉良義央の長男・綱憲を養子を迎えることによって上杉家の存続が認められるという騒動の際に、上杉領は30万石から15万石となり、保原城を含む伊達郡(および信夫郡と置賜郡屋代)は没収され、天領となった。この時、保原城も廃城となった。
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