上杉氏と最上氏
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天正12年(1584年)、最上義光は、羽州探題家としての実力再興を目指し、域内の大江氏、白鳥氏、天童氏を破り、村山・最上両郡を勢力下に治めた。置賜地方は血縁関係のある伊達氏の支配下にあり、進出できないことから北進し、庄内地方の制圧を目指した。庄内一円は武藤氏庶流の大宝寺氏が有力な国人を支配していたが、義光は積極的に介入し制圧を目指した。また、早くから豊臣秀吉と同盟関係にあった上杉景勝は、天正14年(1586年)人質を出して臣従し、出羽国切り取りの裁可を得た。これらの動きに対し、大宝寺義興は越後の本庄繁長を頼り、繁長の子義勝を自らの養子として迎える。しかし、庄内の国人たちがこれに反発し、天正15年(1587年)反乱が起こる。最上義光はこの謀反に介入し、大宝寺義興を自害に追い込み庄内を制圧する。しかし、落ち延びた大宝寺義勝(本庄繁長の子)は、翌天正16年(1588年)8月、繁長と共に庄内奪回を目指して進攻、大崎合戦出陣中の不意を衝かれた最上勢は十五里ヶ原の戦いで大敗し、庄内地方は上杉氏配下である本庄繁長の支配下に置かれた。天正18年(1590年)の奥州仕置により、庄内地方は大宝寺義勝の領地として公認され、藤島一揆による大宝寺氏の改易を経て、上杉氏の所領となった。十五里ヶ原の戦いは豊臣秀吉による関東・東北の惣無事令(天正15年12月)の後だったため、最上氏・上杉氏の間に禍根を残すこととなった。 慶長3年(1598年)、上杉景勝は越後・佐渡2国などから蒲生氏郷の旧領、すなわち会津・置賜・信夫・伊達・安達などに移封され、加えて庄内の支配も引き続き認められ、計120万石を領した。これにより、最上義光は仇敵上杉氏に南と西から挟まれることとなり、逆に上杉景勝にとっても最上氏に新領地と庄内地方を遮断され、ここに両氏の激突は避けられない状況になった。 この後、直江兼続は、米沢と庄内を結ぶ軍道の建設を秘密裏に進め、約1年で完成する(朝日軍道)。
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