上杉氏と最上氏とは? わかりやすく解説

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上杉氏と最上氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:30 UTC 版)

慶長出羽合戦」の記事における「上杉氏と最上氏」の解説

天正12年1584年)、最上義光は、羽州探題としての実力再興目指し域内大江氏白鳥氏天童氏破り村山最上両郡を勢力下に治めた置賜地方血縁関係のある伊達氏支配下にあり、進出できないことから北進し、庄内地方制圧目指した。庄内一円武藤氏庶流大宝寺氏有力な国人支配していたが、義光は積極的に介入し制圧目指した。また、早くから豊臣秀吉同盟関係にあった上杉景勝は、天正14年1586年人質出して臣従し、出羽国切り取り裁可得た。これらの動き対し大宝寺義興越後本庄繁長頼り、繁長の子義勝を自らの養子として迎える。しかし、庄内国人たちがこれに反発し天正15年1587年反乱が起こる。最上義光はこの謀反介入し大宝寺義興自害追い込み庄内制圧する。しかし、落ち延びた大宝寺義勝本庄繁長の子)は、翌天正16年1588年8月、繁長と共に庄内奪回目指し進攻大崎合戦出陣中の不意を衝かれた最上勢は十五里ヶ原の戦い大敗し庄内地方上杉氏配下である本庄繁長支配下置かれた。天正18年1590年)の奥州仕置により、庄内地方大宝寺義勝領地として公認され藤島一揆による大宝寺氏改易経て上杉氏所領となった十五里ヶ原の戦い豊臣秀吉による関東東北惣無事令天正15年12月)の後だったため、最上氏上杉氏の間に禍根を残すこととなった慶長3年1598年)、上杉景勝越後佐渡2国などから蒲生氏郷旧領、すなわち会津置賜信夫伊達安達などに移封され、加えて庄内支配引き続き認められ、計120万石領した。これにより、最上義光仇敵上杉氏に南と西から挟まれることとなり、逆に上杉景勝にとっても最上氏に新領地庄内地方遮断され、ここに両氏激突避けられない状況になったこの後直江兼続は、米沢庄内を結ぶ軍道建設秘密裏進め、約1年完成する朝日軍道)。

※この「上杉氏と最上氏」の解説は、「慶長出羽合戦」の解説の一部です。
「上杉氏と最上氏」を含む「慶長出羽合戦」の記事については、「慶長出羽合戦」の概要を参照ください。

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