上杉氏との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 16:09 UTC 版)
永禄2年(1559年)、再び椎名氏への圧迫をはじめ、長尾景虎(のちの上杉謙信。以下「謙信」とする)により仲裁を受けるが、その後も攻撃を止めなかった。 永禄3年(1560年)、謙信の越中出兵を招いて敗北し、富山城を放棄して増山城へ逃げ込み、畠山氏の仲介を受けて上杉謙信と和睦した。ところがその後も甲斐の武田信玄と通謀して椎名氏への圧迫を続け、永禄5年(1562年)の7月に謙信の再侵攻を受けて敗北。 上杉軍が帰国するとすぐに再起し、勝興寺・瑞泉寺の越中一向一揆の二大寺院を味方につけ、9月5日には神通川の合戦で上杉方・椎名勢を撃破し、上杉方についていた同族の神保民部大夫、椎名家重臣の神前孫五郎、土肥二郎九郎などを討ち取る大勝利をおさめた。その勢いを駆って新庄城、堀江城を落とし、さらに松倉城下まで椎名氏を追い詰めたが、翌10月になると再び謙信が後詰に来援したため、椎名氏打倒は目前で阻止、逆に居城の増山城を包囲されてしまい、またも能登畠山氏の仲介で降伏を余儀なくされた。
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