上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)
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「足利成氏」の記事における「上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)」の解説
山内上杉家は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉氏支援を決定し、享徳4年4月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得たために、成氏は朝敵となる。房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏の援軍と小栗城の敗残兵が、下野天命(佐野市)・只木山に布陣した。成氏は6月24日に、天命・只木山の西にある現在の足利市に布陣して対抗したが、7月には小山に移動している。一方、駿河守護今川範忠は、上杉氏の援軍として4月3日に京都を発ち(『康富記』)、6月16日には鎌倉を制圧した(『鎌倉大草紙』)。 その後、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。享徳4年6月に古河鴻巣に屋形(古河公方館)を設け、長禄元年(1457年)10月には修復が終わった古河城に移った(『鎌倉大草紙』)。古河を新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所の拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方を支持した武家・豪族の拠点に近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟)ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の1つになったと考えられる。更に成氏の兄弟で勝長寿院門主であった成潤も自らが別当を兼務する日光山に対抗する姿勢を見せている。 成氏は幕府に対して、これは上杉氏との抗争であり、幕府には反意がないことを主張したが、回答は得られなかった。京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す。
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