上杉勢反攻と古河移座とは? わかりやすく解説

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上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 23:15 UTC 版)

足利成氏」の記事における「上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)」の解説

山内上杉家は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、体制立て直し図った室町幕府上杉氏支援決定し享徳4年4月後花園天皇から成氏追討綸旨御旗得たために、成氏は朝敵となる。房顕は上野平井城入り越後上杉氏援軍小栗城敗残兵が、下野天命佐野市)・只木山布陣した。成氏は6月24日に、天命・只木山の西にある現在の足利市布陣して対抗したが、7月には小山移動している。一方駿河守今川範忠は、上杉氏援軍として4月3日京都発ち(『康富記』)、6月16日には鎌倉制圧した(『鎌倉大草紙』)。 その後、成氏は鎌倉放棄し下総古河本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。享徳4年6月古河鴻巣屋形古河公方館)を設け長禄元年1457年10月には修復終わった古河城移った(『鎌倉大草紙』)。古河新たな本拠とした理由は、下河辺荘等の広大な鎌倉公方御料所拠点であり、経済的基盤となっていたこと、水上交通の要衝であったこと、古河公方支持した武家豪族拠点近かったことなどが挙げられている。古河公方側の武家豪族中でも、特に小山持政は成氏が後に兄と呼ぶ(兄弟の契盟)ほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏存在あわせて近接する古河本拠とする動機1つになった考えられる。更に成氏の兄弟勝長寿院門主であった成潤も自らが別当兼務する日光山対抗する姿勢見せている。 成氏は幕府に対して、これは上杉氏との抗争であり、幕府には反意がないことを主張したが、回答得られなかった。京都では享徳4年7月康正康正3年9月には長禄立て続け改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて幕府抵抗する意思を示す。

※この「上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)」の解説は、「足利成氏」の解説の一部です。
「上杉勢反攻と古河移座(初代古河公方)」を含む「足利成氏」の記事については、「足利成氏」の概要を参照ください。

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