戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢
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「西上作戦」の記事における「戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢」の解説
武田信玄は戦国期に天文10年代から信濃侵攻を行い、駿河の今川氏・相模の北条氏と三国同盟を結んで南信一帯を押さえて東濃の一部地域にまで勢力を広げ、また越後国の上杉謙信と対決し北信一帯まで領国を拡大した。一方で尾張国の織田信長は永禄年間までには尾張を統一し、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いにおいて駿河の今川義元を打ち取り、美濃への侵攻を行っていた。武田氏では川中島の戦いを契機に上杉氏との抗争が収束し、駿河では当主交代による領国の動揺で三河の松平元康(徳川家康)が独立し、独自勢力として台頭した。こうした情勢のなかで武田・織田両氏は領国が接しはじめた永禄年間から外交関係が見られ、当初は武田氏では今川氏の当敵である織田氏に対して敵対を示しているが美濃情勢への積極的介入は行わず中立的立場をとっている。視点を美濃国内に移すと、天文10年代に斎藤道三が織田信長に娘の濃姫を嫁がせて同盟を結び、東濃・南信を巡って武田氏と対峙していたが、後を継いだ息子の義龍が父・道三を殺害したことで、斎藤氏と織田氏の同盟が破棄されて両氏は敵対関係になっていた。武田氏からすれば北信における上杉氏との戦いの最中に背後から斎藤氏が南信に進出する事態を回避するためには今川氏のみならず、今川氏と敵対関係にある織田氏との協力も必要とする、という複雑な外交関係が出現することになった。 今川氏の当主交代後も武田と今川は同盟関係を継続しているが徐々に関係は悪化し、永禄8年(1565年)には今川当主氏真妹を室とする武田氏の嫡男義信が謀反により廃嫡される事件が発生している(義信事件)。義信の廃嫡により武田氏の世子は信玄庶子の諏訪勝頼(武田勝頼)となるが、この前後には信長の養女(信長の妹婿・遠山友勝の娘)が勝頼正室に迎えられており、武田・織田間では関係改善が図られている。永禄10年(1567年)に松姫(信松尼・信玄の6女)と織田信忠(信長の嫡男)を婚約させることで同盟を維持していた。 一方、武田・織田両氏と京都権門の関係では、武田氏では越後上杉氏との抗争において将軍義輝からの紛争調停を受けており、永禄年間には本願寺との関係も強めている。一方、織田氏では永禄11年(1568年)9月26日に信長が将軍足利義昭を奉じて上洛を果たし両者は連携しているが、永禄13年(1570年)1月に信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟を義昭に突きつけて強制的に承認させた。これにより信長に不満を抱いた義昭は、信玄をはじめ本願寺顕如・朝倉義景・三好三人衆らに信長討伐を命じる御内書を発しているが、信玄は織田氏との関係上これには応じていない。また、近年の室町幕府や織田政権の研究では、この時期に足利義昭が信長討伐の意思を持っていたかについて疑問が出されている(#研究史)。
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