戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢とは? わかりやすく解説

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戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:54 UTC 版)

西上作戦」の記事における「戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢」の解説

武田信玄戦国期天文10年代から信濃侵攻行い駿河今川氏相模北条氏三国同盟結んで南信一帯押さえて東濃一部地域にまで勢力広げ、また越後国の上謙信対決し北信一帯まで領国拡大した一方で尾張国織田信長永禄年間までには尾張統一し永禄3年1560年)には桶狭間の戦いにおいて駿河今川義元打ち取り美濃への侵攻行っていた。武田氏では川中島の戦い契機上杉氏との抗争収束し駿河では当主交代による領国動揺三河松平元康徳川家康)が独立し、独自勢力として台頭したこうした情勢のなかで武田織田両氏領国接しはじめた永禄年間から外交関係見られ当初武田氏では今川氏の当敵である織田氏に対して敵対示しているが美濃情勢への積極介入行わず中立的立場とっている。視点美濃国内に移すと、天文10年代斎藤道三織田信長に娘の濃姫を嫁がせて同盟を結び、東濃南信巡って武田氏対峙していたが、後を継いだ息子義龍が父・道三を殺害したことで、斎藤氏織田氏同盟破棄され両氏敵対関係になっていた。武田氏からすれば北信における上杉氏との戦い最中背後から斎藤氏南信進出する事態回避するためには今川氏のみならず今川氏敵対関係にある織田氏との協力も必要とする、という複雑な外交関係出現することになった今川氏当主交代後も武田今川同盟関係継続しているが徐々に関係は悪化し永禄8年1565年)には今川当主氏真妹を室とする武田氏嫡男義信謀反により廃嫡される事件発生している(義信事件)。義信廃嫡により武田氏世子信玄庶子諏訪勝頼武田勝頼)となるが、この前後には信長養女信長妹婿遠山友勝の娘)が勝頼正室に迎えられており、武田織田間では関係改善図られている。永禄10年1567年)に松姫信松尼信玄の6女)と織田信忠信長嫡男)を婚約させることで同盟維持していた。 一方武田織田両氏京都権門の関係では、武田氏では越後上杉氏との抗争において将軍義輝からの紛争調停受けており、永禄年間には本願寺との関係強めている。一方織田氏では永禄11年1568年9月26日信長将軍足利義昭奉じて上洛果たし両者連携しているが、永禄13年1570年1月信長義昭将軍権力制限するため、殿中御掟義昭突きつけ強制的に承認させた。これにより信長に不満を抱いた義昭は、信玄をはじめ本願寺顕如朝倉義景三好三人衆らに信長討伐命じ御内書発しているが、信玄織田氏との関係上これには応じていない。また、近年室町幕府織田政権研究では、この時期足利義昭信長討伐意思持っていたかについて疑問出されている(#研究史)。

※この「戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢」の解説は、「西上作戦」の解説の一部です。
「戦国期の甲斐・尾張関係と畿内情勢」を含む「西上作戦」の記事については、「西上作戦」の概要を参照ください。

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