戦国期の小山田氏
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戦国期の甲斐では国中(甲府盆地)を戦国大名化した守護・武田氏が治める。これに対し甲斐各地では有力国衆が台頭し、中でも富士川一帯の河内地方では穴山氏が、郡内では小山田氏が台頭する。穴山・小山田両氏をはじめ甲斐の有力国衆は武田氏の家臣団に組み込まれるが、穴山・小山田両氏は河内・郡内領において独自の支配を展開した存在として知られる。 永正4年に甲斐守護・信縄が死去すると、信縄の子である信直(武田信虎)が家督を継承する。これに対して信直と叔父の油川信恵・岩手縄美兄弟の間で抗争が発生し、駿河国の今川氏や相模国の後北条氏(伊勢氏)など対外勢力の動向が関係して戦乱状態が続いた。 『甲州郡内小山田家系図』によれば、小山田信長の姉妹は武田信昌に嫁ぎ、信恵・縄美兄弟の生母であるという。このため、信長の子とみられる小山田弥太郎は信恵・縄美方に属する。永正5年(1508年)10月4日には信直・信恵間で合戦が起こり、信恵方は大敗し、信恵・縄美ほか多くが戦死した。『勝山記』によれば、弥太郎は報復のため国中へ侵攻し、同年12月5日の合戦で戦死したという。なお、この合戦後に郡内小山田の一門である境小山田氏の小山田平三(弾正)が伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)のもとへ亡命したという。 弥太郎の次代は子息あるいは弟とされる越中守信有が継承し、以来小山田氏では弥三郎信有、出羽守信有と三代の当主が同じ実名「信有」を継承している。永正6年(1509年)にも信虎の郡内侵攻を受け、翌永正7年春に小山田氏は武田方への従属を条件に和睦し、越中守信有は信虎の妹もしくは、娘を室に迎えている。 国中では信虎と駿河今川氏と結んだ西郡の国衆大井氏との合戦が続き、永正12年(1515年)10月17日には越中守信有が派遣したと見られている小山田大和守が戦死している。今川勢は籠坂峠を越えて郡内へも侵攻し、永正13年末に小山田氏は駿河勢を撃退している。永正15年(1518年)5月に至り武田・今川両氏は和睦しているが、小山田氏は別個に今川氏と和睦している。 永正16年(1519年)に信虎は守護所を川田館から甲府へ移転し、新たに躑躅ヶ崎館を築造して城下町整備を行う。これに伴い家臣団も城下に集住し、小山田氏も甲府に屋敷を置き、越中守信有の正室も甲府へ移っている。翌永正17年には郡内北部に猿橋(大月市)を架橋しており、この時点で小山田氏の支配が郡内北部にまで及んでいることが確認される。 天文2年(1533年)には甲府に屋敷を持ち武田への帰属を強めるが、外交関係などで一定の独立性は有していたといわれる。享禄3年(1530年)には本拠を中津森館からより発展性の見込める谷村へ移転し、城下町整備を行う。 戦国時代末期に武田氏が尾張の織田信長の侵攻(甲州征伐)を受けると、小山田氏最後の当主信茂は武田勝頼の亡命を拒否し勢力の保全を図ったが、それまでの武田氏との密接な関係が災いし信長に不忠者として一族滅亡させられ、小山田氏は歴史からその姿を一時消すことになった。
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