戦国期の遺構とは? わかりやすく解説

戦国期の遺構

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:13 UTC 版)

鳥取城」の記事における「戦国期の遺構」の解説

西坂中坂東坂3つの尾根筋中心に戦国期の遺構も残されている。 西坂 鳥取県立博物館上の稜線上って山上の丸出丸達する。宮部時代までは大手道とされたが、江戸時代になると険し西坂使われなくなり藩政期鳥取城絵図にも登り口道筋記されていない山上の丸までに松の丸太鼓ヶ平・笛ヶ平・鐘ヶ平などの砦跡がある。伝承によれば松の丸山名豊国の頃までの城主居館があり、宮部時代になってから二の丸居館移ったという。『鳥府志』によると石黒火事の頃までは松の丸には煙硝蔵があったと記されている。松の丸・鐘ヶ平に石塁確認できるほかは、稜線を削平し戦国期の砦である。1849年嘉永2年)に二の丸拡張され時には西坂砦群石垣掘り起こされ再利用された。そのためか西坂砦群石垣二の丸側が崩されている。 中坂 二の丸裏手八幡神社から登っていく藩政時代大手道だが、戦国期の砦跡も数多く残る。中腹には桂蔵坊という祀った中坂神社が、戦国期の砦跡に建てられている。また遠見番所見越番所という2つ番人小屋があった。山頂近くには岩をくりぬいて山から湧水を貯めた山伏井戸という井戸があった。 東坂 長田神社の脇の谷から登っていく江戸時代搦手道。山名豊国布勢にあった仙林寺移築した伝えられる寺屋敷が途中にあり、石畳道井戸五輪塔などが残っている。山頂近く稜線には天険利用した十神の砦があり、1573年天正元年)の尼子党攻撃をここで防いでいる。十神の砦の入り口には古い城門跡が残る。 この他雁金山城に続く北方稜線上や円護寺側の山腹にも多くの砦跡が残っている。なお山上の丸の直下に無数の削平地があるが、これらは羽柴秀吉鳥取城攻撃の際に城内避難してきた人々駐屯小屋掛けの跡と『鳥府志』が伝えている。

※この「戦国期の遺構」の解説は、「鳥取城」の解説の一部です。
「戦国期の遺構」を含む「鳥取城」の記事については、「鳥取城」の概要を参照ください。

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