山上の丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:13 UTC 版)
天守、車井戸、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓などの建物があった。東方に二の丸・三の丸と見なすことのできる2段の郭がある。本丸西方の一段下には出丸があり、下段の御櫓のほかに馬場も設けられていた。 天守 山上の丸の北西隅に位置する。始原については不明な点が多いが、『因幡民談記』によると1573年(天正元年)に山名豊国が因幡守護所を布勢天神山城から鳥取城に移した際に、布勢天神山城の3層の天守を移築したとされている。池田長吉が鳥取城主となった際、強風によるゆがみを避けるために2層に改築した。 天守台は、南北10間5尺×東西10間2尺のほぼ正方形で城内で最大の櫓台である。2層天守の櫓台としては非常に大規模なものであり、現存天守では犬山城天守とほぼ同じ大きさである。天守台の石垣を見ると北側に向けて築き足した箇所が明瞭に確認でき、3層天守を2層に改築した際に石垣を拡張したことが遺構からも確認できる。 天守台中央部には深さ8尺の穴蔵がある。 古絵図等によれば杮葺または板葺の屋根、下見板張りの外装という寒気に配慮した造りで、最上階屋根以外に破風のない外観であったと考えられている。また天守南東部に突き出した5間×3間・3間×3間の2段の石塁に着目し、鳥取城天守は付櫓が付随していた複合天守という意見がある。天守台には天守に入るための石段の痕跡がないため、付櫓を経由して天守内部に入っていたという推論も、ある程度裏付けられる。ただ『鳥府志』や鳥取池田家文書などの諸記録には付櫓のことは記されておらず、鳥取城を描いた古絵図にも付櫓が描かれていない。寛文から貞享年間に描かれたとみられる鳥取城絵図には、2層の天守櫓や山上の丸の建物群は描かれているが、付櫓が付随していたとされる天守南東部には石塁のみが描かれ、建物は描かれていない。その一方で『鳥府志』には、天守北東に建っていた御旗櫓という櫓についての記述がある。 鳥取城天守は1692年(元禄5年)に落雷で焼失し、以後再建されなかった。天守台の石垣も、江戸時代後期になって北側が幅7間にわたって孕み出しが生じ、巻石垣で補強するなどの措置がとられたようである(鳥取県立博物館所蔵『御天守御台石垣損シノ処御絵図面』 作者および作成年代不明だが江戸時代後期の作か)。 太平洋戦争中には、天守台上に防空監視所が設けられた。1943年の鳥取大震災によって天守台北側の石垣が崩れ、現在も修理されないまま石垣が崩落している。 御旗櫓 『鳥府志』に「天守北東に蒲鉾型に張り出した石塁があり、そこに御旗櫓と呼ばれる櫓が建っていたが、現在は番人が口伝えに語るのみで、詳細は不明である」と記述されている。鳥取城を描いた古絵図には、山上の丸の出丸にあたる場所に2棟の単櫓が描かれているが、どれが御旗櫓なのかは櫓の名称が記されていないため不明である。御旗櫓があったと伝えられる天守台の北東部は、鳥取大震災によって石垣が崩落しており、櫓台に相当する石塁も、現状では確認することができない。 着見櫓 山上の丸の東南隅にあり、走り櫓によって東側の多聞櫓とつながっていた。天球丸下の楯蔵とともに、1720年(享保5年)の石黒火事の際に焼け残った数少ない建物だった。 車井戸 天守の近くにあり、慶長の大改築の際に3年かけて掘られた。車井戸の近くには天守奉行が駐在した建物もあった。またケンポ梨、兜松といった巨木も近くにあったという。 下段の御櫓 山上の丸の出丸に存在したと記録されている櫓で、江戸初期の絵図にも平櫓が記されている。石黒火事で焼失し、以後再建されなかったという。 御箱井戸 三の丸下、東坂の城門内にあった井戸。慶長の大改築の際に北麓の円護寺(えんごうじ)集落の人々が水をくみ上げたと伝えられている。鳥府志にはこの中に山椒魚(カスミサンショウウオ)と見られる異形の物が住むと記されている。
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