作成年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/05 18:34 UTC 版)
紀三井寺参詣曼荼羅は中世末期(16世紀後半)の作と推定される。元禄11年(1698年)の「穀屋寺移転ニ付口上書」には、穀屋比丘尼の春古は豊臣秀吉の紀州攻めに際して、秀吉との直接交渉により山内安堵の証文を得て、焼討を回避した(天正13年〈1585年〉)とある。また、「穀屋寺移転ニ付口上書」には、多宝塔建立の再興縁起(文安6年〈1449年〉)や本堂観音堂の再興勧進帳(大永2年〈1522年〉)を所蔵すると記されている。こうした点から、仁王門(永正6年〈1509年〉建立)も含めて、秀吉の紀州攻めにさかのぼる年代に建立された諸堂の勧進に穀屋坊が関わっていたことが分かる。画面中の坊舎に比丘尼の姿が見えないことから、本堂左の坊舎を穀屋坊ではなく元和年間(1615年~1624年)に移転した本坊護国院とする解釈も不可能ではないが、元和7年(1621年)創建の紀州東照宮の描写を欠いており、制作年代は17世紀以降までくだることはないと考えられる。 しかし、護国院が開かれた天正14年(1586年)以後の勧進活動は、護国院の勢力の伸張を考えても、穀屋坊のみによるものとは考え難い。大永2年(1522年)の大修復は、穀屋坊が単独で携わったことが史料上明確であるが、その後の万治3年(1660年)の加修は護国院の手によるものであり、今日の本堂は宝暦9年(1759年)建立のものであることから、大永2年の大修復は大きな画期であると言えるだろう。紀三井寺参詣曼荼羅の作成年代は中世後期という以上には確定できないが、16世紀に作成された初期の参詣曼荼羅として位置づけられる。
※この「作成年代」の解説は、「紀三井寺参詣曼荼羅」の解説の一部です。
「作成年代」を含む「紀三井寺参詣曼荼羅」の記事については、「紀三井寺参詣曼荼羅」の概要を参照ください。
作成年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/13 15:07 UTC 版)
イェニセイ碑文は内容が短く、主に被葬者の名前,称号,年齢,生涯の活躍などを記述し、その内容には紀年を直接指し示す記述がないのが通例であり、その作成年代を確定するのは極めて困難である。しかし、語彙の特徴や、氏族標識であるタムガなどを通じて推定可能な場合もある。例えば『E11碑銘』はその内容から894年~925年の間、『E59碑銘』はタムガの様式から考えて10世紀初頭~10世紀末と考えられる。
※この「作成年代」の解説は、「イェニセイ碑文」の解説の一部です。
「作成年代」を含む「イェニセイ碑文」の記事については、「イェニセイ碑文」の概要を参照ください。
- 作成年代のページへのリンク