紀年法
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紀年法(きねんほう)とは、年を数えたり、記録したりする方法のこと。
類型
紀年法には、大きく分けて以下の3種類に分けられる。
- 西暦/キリスト紀元、ヒジュラ暦/ヒジュラ紀元、仏暦/仏滅紀元、皇紀/神武紀元、人類紀元など、ある年を始点にして、経過年と遡及年を数える無限のシステム(紀元)。
- 君主の即位や、事件などによってリセットされる有限のシステム(元号)。
- 干支(60年周期)、インディクティオン(15年周期)、歳星紀年法(12年周期)など、一定の年数で繰り返される循環式システム。
また、一部の紀年法を除き、紀元と元号の両方共に、始まりになる年を「0年」でなく「1年」として考える。即ち、紀元からの経過年数や遡及年数を表す基数年(周年)ではなく、序数年(数え年)として数える。
暦法との関係
紀年法は、元年と1年経過するごとに加算する原則があるのみで、元日は定義しない。これに対し暦法は、月や太陽の運行に従って1か月ごとの日数を定めてから1年の長さと元日を定義する。つまり年月日で暦を表すには紀年法と暦法の両方が必要となる。したがって改元により新しい紀年法を採用した日が必ず元日になるとは限らず、あるいは暦の月日が不連続となることがある。
日本においては、暦法と同様に、紀年法も「○○暦」と呼称されたり、紀年法が暦法の一部と認識されてしまうことも多く、両者が混同されることがある。西暦は、かつて紀年法としては「西洋紀元」「西紀」という語で区別されていたが、やがて混同され、どちらも西暦とよばれている。現在の西暦は、暦法としてはグレゴリオ暦を指すが、紀年法としてはキリスト紀元である。
各地域の紀年法
各地域の紀年法については、「紀元」「元号」の項目も参照のこと。
ヨーロッパ
古代ローマ帝国では、元号(○○皇帝在位N年)、ローマ建国紀元、インディクティオの3種類がよく用いられていた。その後、4、5世紀頃には、ディオクレティアヌス紀元がキリスト教徒の間で最も広く用いられる紀年法であった。
しかし、西ローマ帝国が消滅した後の西ヨーロッパで、イエス・キリストの生年を元年とするキリスト紀元(西暦)が徐々に用いられるようになり(君主の即位年を基準とする紀年法も並行して用いられた国もあった。)、15世紀以降に一般化して現在に至る(詳細は「西暦」の項目参照)。
東ヨーロッパの正教圏では、中世から近代まで10世紀以降の東ローマ帝国で使用された世界創造紀元が使用されていたが、現在は西暦が一般的である。
イスラム圏、東南アジア
中東のイスラム圏ではヒジュラ紀元が、東南アジアの仏教国家では仏滅紀元が、それぞれ広く用いられている。
漢字文化圏
漢字文化圏では、長らく元号と干支が用いられてきた。民間においては干支のうち十二支を動物に見立てた十二生肖で年を数える紀年法が広く使われてきた。
中国では辛亥革命によって元号は廃止され、民国紀元が施行された。その後に成立した中華人民共和国では、民国紀元は廃止され、キリスト紀元が用いられている。
日本では第二次大戦前は元号を基本としていたが、一時期神武紀元が多用されたこともあった。戦後日本では民間のキリスト紀元への移行が進み、元号は行政関連が主な用途となっているが、自衛隊の兵器命名のように行政でもキリスト紀元に移行したものもある。
戦後の朝鮮半島とベトナムでは元号が廃止され、キリスト紀元と干支が多く用いられているが、崇禎紀元、檀君紀元、越南民主共和(私年号)など、私年号を含めて独自の紀元も用いられている(或いは用いられていた)。北朝鮮では金正日体制の時期から主体紀元を多用するようになった。
関連項目
紀年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:13 UTC 版)
詳細は「日本書紀#紀年・暦年の構成」、「神武天皇即位紀元」、および「干支#干支による紀年」を参照 紀年について『日本書紀』は百済三書を参照または編入している。百済王に関しては薨御年と即位年も記されている。 神功皇后摂政55年(255年)百済の肖古王が薨御 神功皇后摂政56年(256年)百済の貴須王が即位 神功皇后摂政64年(264年)百済の貴須王が薨御 百済の枕流王が即位 神功皇后摂政65年(265年)百済の枕流王が薨御 百済の辰斯王が即位 ちなみに古事記では照古王が応神天応の時に貢物を奉げる逸話が書かれている。 肖古王、貴須王、枕流王、辰斯王は同じくそれぞれ朝鮮半島の正史である『三国史記』百済本紀の近肖古王(在位:346年 - 375年)、近仇首王(在位:375年 - 384年)、枕流王(在位:384年 - 385年)、辰斯王(在位:385年 - 392年)と考えられている。紀年が120年ずれているが、各王の在位期間がほぼ一致する。井上光貞も『日本書紀』の編者が神功皇后を卑弥呼に比定したため干支を二運繰り上げたという説を支持している。ただし井上秀雄は、百済記の年紀は干支だけの簡単なものでありそれだけでは絶対年代が確定せず、『日本書紀』も『三国史記』百済本紀も、それぞれの編者が独自に考証して絶対年代を付与したものであって、既存の伝承があった上でそれよりも上げたり下げたりしたわけではない、とみている。いずれにせよ年代がずれているだけなので、少なくとも神功皇后摂政紀においていわゆる二倍暦説は当てはまらない可能性が高い。 神功皇后55年に百済の肖古王(214年死亡)又は近肖古王(375年死亡)が死亡したことが日本書紀には書かれている。近肖古王の死亡時期を元にした年表だと神功皇后元年は321年になる。一方魏志を引用した明帝の景初三年、六月、倭女王が遣使の記述を元にした神功皇后元年は201年になる。肖古王と近肖古王の名前は似ていて干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王とその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。 ちなみに日本書紀の紀年をそのまま当てはめた戦前の説では肖古王、貴須王は肖古王(在位:166年 - 214年)、責稽王(在位:286年 - 298年)とされた。「貴須王」と「責稽王」には文字の差が大きいが、これもただの誤写だと片付けられていた。枕流王、辰斯王についてはどう考察しても時代が120年下る人物であるが、これは後代になっても百済が毎年貢物を奉じている旨を神功皇后の記事に挿入しただけであり、肖古王・責稽王の時期とは分ける必要がある。この部分については実は近肖古王を肖古王と勘違した事により書き込まれただけの可能性が大いにある。そのせいか丁度120年だけ時代がずれてしまっている。干支では同じ年代の表記になってしまう。 一方、新羅については『三国史記』新羅本紀の婆娑尼師今と、奈勿尼師今の子で倭国に人質として赴いた後に逃げ帰った未斯欣がそれぞれ『日本書紀』の波沙寐綿と微叱己知に該当すると思われるが、婆娑尼師今と奈勿尼師今では大きく時代が異なる。『三国史記』では新羅の未斯欣と百済の腆支(『日本書紀』では「直支(とき)」)はほぼ同時期に倭国の人質になっているが、『日本書紀』では微叱己知と直支の日本滞在は重ならず、80年もの差がある。
※この「紀年」の解説は、「神功皇后」の解説の一部です。
「紀年」を含む「神功皇后」の記事については、「神功皇后」の概要を参照ください。
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