孔子生後紀年
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孔子の没年を元年とする孔子卒後紀年に対し、生まれた年を元年とするものもある。それが孔子生後紀年である。これは康有為の弟子梁啓超が日本に亡命した後に著した『紀年公理』(『清議報』第16冊、1898年)で紹介した説である。これは「其の生に法り、其の死に法らず」(『公羊伝』隠公元年何休注)に基づいており、以後変法派はこの紀年法を統一して用いるようになる。 ただこの紀年法も普及しなかった。実は孔子紀年が発表されて以来、康有為の思惑を超えて独自の紀年法が流行したからに他ならない。年号を変えることが時の王朝に刃向かうことを意味すると先に述べたが、それを正しく理解し行う集団があって様々な新年号を提案していた。言うまでもなく孫文ら革命派である。有名な黄帝紀年や唐堯紀年、夏禹紀年、秦統一紀年、亡国紀年、共和紀年等々、多くの私紀年が登場し、どれもが自らの正当性を主張した。その中にあって孔子紀年は埋没しかねない勢いであったのである。 ただ康有為自身は生涯孔子紀年への執着を捨てなかった。たとえば辛亥革命後の1912年に康有為が創刊した雑誌『不忍』でも孔子紀年が使われている。それには孔教への康有為の強い信念が込められているのである。
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