孔子卒後紀年とは? わかりやすく解説

孔子卒後紀年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 05:33 UTC 版)

孔子紀年」の記事における「孔子卒後紀年」の解説

康有為一派最初に採用した孔子紀年で、孔子没年元年とする紀年法である。光緒21年1895年)、上海発行された『強学報初号表紙に「孔子卒後二千三百七十三年」と記したのが最初の使用と見られる(ただし光緒紀年並べ記す)。 また同雑誌には「孔子紀年説」を掲載し、この紀年法採用した理由を以下のように記す。すなわち『史記』には「孔子卒」や「孔子卒後○○年」と記すが、これは董仲舒から公羊学微言大義をうけた司馬遷孔子紀年実践したものだという。その後二千年も埋もれていたこの紀年法を『強学報』に復活させたのだと述べている。 また光緒24年1898年)の百日維新時には、「孔聖尊んで国教為し教部教会立て孔子紀年を以て淫祠廃する請うの摺」を上奏して孔子紀年採用させようとした。上奏文では1.皇帝ごとに年号が変わると不便であるため、孔子でもって年号統一し)人の記憶力の無駄を省き便利となる、2.(孔子対する)人々信仰心高めやすくするためである、と理由述べている(ただしこの上奏文戊戌変法より後の宣統3年1911年)に出版されており、必ずしも戊戌当時考え反映したとはいえない、とする説もある)。 しかしこの試み成功しなかった。『強学報』はわずか二号出しただけで頓挫し、後を承けた『時務報』には採用されなかった。編集部内外から強い批判被ったからである。そのため孔子紀年採用するかどうかその後変法派内の分裂促す原因一つとなった年号変更することに強い反感示されるのは、無理のないことといねばならない。元々年号制定とは『礼記』の「正朔改め服色を易」えるという一節に基づき君主新王朝を開く際に新体制となったことを世に知らしめる手段であった。そのため新年号を使用することは、それを定めた時の王朝の支配服することを意味する。来した朝貢使節に暦を授与するのは、その典型的な例で、暦を受け取ということはその中国王朝服属することなのである逆に言えば時の王朝の年号使用しないことは、その王朝対し異志を抱くことと同義となる。 康有為自身清朝対し反抗意思などなく、孔子紀年採用孔子神格化のための単なる布石に過ぎなかった。しかし周囲からあらぬ疑いかけられることを避け手立てはなかったのである変法派革命ではなく改革志していたのであるからその躊躇は当然であったいえよう

※この「孔子卒後紀年」の解説は、「孔子紀年」の解説の一部です。
「孔子卒後紀年」を含む「孔子紀年」の記事については、「孔子紀年」の概要を参照ください。

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