孔子の高弟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:40 UTC 版)
『論語』には顔回への賛辞がいくつか見られる。たとえば孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」(雍也第六、先進第十一)や同門の秀才子貢が、「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)、と述べたことが記載されている。顔回は孔子から後継者として見なされていた。それだけに早世した時の孔子の落胆は激しく、孔子は「ああ、天われをほろぼせり」(先進第十一)と慨嘆した。顔回が貧しく、食物を手に入れるのすら難しかったとき、欲のない顔回に「聖人の道に庶い」と評価し(先進第十一)、「顔回は私を助けることはせず、ただ黙っているがしっかりと私を理解していると評価した(先進第十一)。 このように『論語』の先進第十一には顔回に関する記述が多く、中でも顔回が亡くなった「顔回死す」で始まる箇所が数箇所登場し、これもまた孔子が顔回に対して評価していた証拠と言える。 『史記』仲尼弟子列伝第七によると、好学であることに加えて「怒りを遷さず、過ちをふたたびせず」と孔子に評されている。また、29歳で頭髪がすべて白髪だったという。 『呂氏春秋』審分覧任数篇には、「陳蔡之厄」の際の「顔回攫食」説話が伝わる。その他、『荀子』哀公篇と子道篇、『韓詩外伝』巻二、『新序』雑事五などにも登場する。
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