戦国期の穴山氏
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なお、穴山氏の河内領における領域支配は信友期から発給文書が見られ、穴山氏が自立的な国衆として支配を行っている一方で、武田氏の従属下にある点も指摘されている。一方で、信友・信君期には武田家中に属しつつも駿河今川氏とは独自の外交関係を結び、甲相駿三国同盟の一環である甲駿同盟に際した武田・今川間の婚姻などを仲介しており、今川家から所領も得ている。 戦国時代の甲斐の統一、領国拡大期にあたる信虎、晴信(信玄)、勝頼の頃には信友、信君・勝千代と相次いで武田氏と婚姻を結んだ当主が出現し、発給文書の数も最大となり河内地方の支配も盛期を迎える。武田家の庶家の多くが他姓を称しているのに対し、穴山氏は武田姓を称することが許されている。 信君は信玄・勝頼期に御一門衆筆頭の立場にあり、永禄12年からの駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)においては庵原郡興津領を預けられ、勝頼期の天正3年の江尻城代山県昌景の死後には江尻領を支配した。
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