領国拡大とは? わかりやすく解説

領国拡大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:45 UTC 版)

今川義元」の記事における「領国拡大」の解説

天文18年1549年)に松平広忠死去すると、義元領主死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域今川家領土にしようとした嫡子竹千代織田人質となっていた事から、岡崎付近に向けて今川軍派遣した岡崎城現在の愛知県岡崎市)に家臣送り込み事実上松平家所領領有した松平家支配下にあった三河国国人領主直接今川家支配下取り込んでいった。また、織田方の三河安祥城攻略現在の愛知県安城市)して、織田家勢力事実上三河から駆逐した。これにより継承直後から続いた西の織田氏との争い今川氏勝利の形で決着したまた、このおり信秀庶長子にあたる城将織田信広捕らえ人質交換によって竹千代奪還実質自らの配下とすることで尾張進出への足掛かり着々と築いていく。天文20年1551年)に織田信秀死去する尾張への攻勢一段と加速させる。 更に天文22年1553年)には亡父定めた今川仮名目録追加法仮名目録追加21条)を加えたが、ここにおいて現在の今川領国秩序維持行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府定めた守護使不入地廃止宣言し守護大名としての今川氏室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。これは、今川氏は既に室町幕府権威によって領国統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。 天文23年1554年)、嫡子今川氏真北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏北条氏互いに婚姻関係結んで甲相駿三国同盟結成した(この会談善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂い断った。 また弘治元年1555年)に行われた第二次川中島の戦いでは武田晴信長尾景虎仲介行って両者和睦成立させた。駿河遠江三河検地実施している。その一方で三河を巡る織田氏との対立激化し、これに触発され吉良氏奥平氏などが今川氏叛旗翻した。これを三河忩劇(みかわそうげき)と呼ぶ。 永禄元年1558年)には、支配下においていた松平元康をして、三河加茂郡寺部城鈴木重教攻めさせて下した同年義元は氏真に家督譲り隠居する。これ以後今川氏本国である駿河遠江発給される文書著名は氏真名となる。一方義元は新領土である分国三河鎮圧および経営集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力をそそぐこととなる。

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領国拡大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:23 UTC 版)

後北条氏」の記事における「領国拡大」の解説

北条氏綱以降北条氏康北条氏政北条氏直小田原城本拠4代続いた。 氏綱の代に関東管領上杉氏小弓公方分裂した真里谷氏里見氏との対立強くなり、第一次国府台合戦において小弓公方滅ぼした。この功により古河公方との協調深め婚姻関係で結び、後に「川越城密約」による決裂までは大い協調した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}三浦浄心北条五代記』や[要検証ノート]「北条氏康条書」(伊佐文書所収)などでは氏綱は関東管領として古河公方背景として勢力拡大根拠としたとされ、この管領職が氏康、氏政に世襲され山内家家督管領職を後継した越後長尾氏出自である上杉謙信との対立となった。 氏康期の天文22年1553年)には甲斐武田氏駿河今川氏との甲相駿三国同盟成立し信濃において山内上杉家越後長尾氏敵対する武田氏とは協調して北関東上野における領国拡大を進めた永禄11年1568年)末には武田氏駿河今川領国への侵攻駿河侵攻)によって三国同盟破綻し越相同盟締結に際して謙信が義氏を古河公方認めることにより北条家謙信山内家後継者として認めることとなり、北条管領消滅したまた、この際北条氏亡命した今川氏当主今川氏真正室は氏康の娘の早川殿)に迫って、氏政の子である国王丸(後の氏直)を養子として今川氏当主の座を譲らせたことによって駿河今川領国支配する大義名分得た。しかし、越相同盟次第形骸化し国王丸を今川氏当主にして駿河併合する計画駿河占領する武田軍敗れたことで失敗終わったため、氏真と国王丸の縁組解消されている。 天文15年1546年)の河越夜戦により扇谷家滅ぼし山内家越後追放した後には関東公方足利氏追って古河城治めた。後に北関東方面では宇都宮氏結城氏佐野氏佐竹氏皆川氏那須氏小山氏太田氏、東には小弓公方千葉氏小田氏里見氏武田氏真里谷氏)、正木氏酒井氏北武蔵・上野方面で由良氏横瀬氏)、成田氏上田氏上杉旗下だった大江流毛利一族北條氏藤田氏長野氏三田氏などと、外圧となった関東管領上杉氏長尾氏これらと同盟時に武田氏今川氏三浦氏繋がり会津守護」を称する蘆名氏、などと合従連衡争い明け暮れた局所的な戦闘においては敗退することもあったが、着実に支配広めた。 氏政が実権掌握した元亀2年1571年)には甲斐武田氏との甲相同盟を回復させるが、天正6年1578年)の越後上杉家における御館の乱武田上杉氏甲越同盟期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏敵対する徳川家康と結び、織田信長接近し、氏直の嫁を織田氏から迎えようとしたが、縁組実現しなかった。 天正10年1582年)、武田攻めにより武田氏滅ぼした後、織田氏重臣滝川一益関東入りさせ、上野国中心に主に北関東諸侯がこれに従った後北条氏織田氏との同盟関係維持模索していたが、同年6月本能寺の変起き信長死亡すると、神流川の戦い滝川破り織田氏旧領領有甲・信・駿地方領有争い対立した徳川氏とは同年10月和睦し同盟関係となったが、天正11年1583年以降北関東抗争続け織田政権継承した豊臣氏対立した天正14年1586年時点での勢力範囲は、伊豆・相模武蔵下総上総北半・上野南半・下野西半、駿河常陸一部及んだ

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