領国の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:53 UTC 版)
氏綱の苦境は敵陣営の内紛によって救われる。天文2年(1533年)に里見氏で内訌が起き、里見義豊が叔父の実堯と正木時綱を粛清した。氏綱は実堯の遺児・義堯を援助して義豊を滅ぼさせ、里見氏が包囲網から脱落する。小弓公方を擁立する真里谷武田氏でも内紛が起き、小弓公方の勢力が弱まることになった。天文6年(1537年)に朝興が死去して、若年の上杉朝定が跡を継ぐと、氏綱は武蔵に出陣して扇谷上杉家の本拠河越城を陥れ、三男の為昌を城代に置いた。天文7年(1538年)には葛西城を攻略して房総への足がかりを築く。氏綱と足利義明はこれまで対立と和睦と繰り返しながらも全面的な対決を避け続けていたが、河越城の陥落に危機感を抱いた義明は葛西城の攻防において扇谷上杉家への援軍を派遣して全面的に対立する方向に向かった。 氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、父・宗瑞の代より形式的には主従関係にあった駿河国の今川氏との駿相同盟に基づいて甲斐国の武田信虎と甲相国境で相争った。武田氏は前述の通り、元々扇谷上杉家と友好関係にあり、武田軍が扇谷上杉家を支援するために北条領である相模国津久井郡に侵攻したり、反対に北条軍が武田領である甲斐国都留郡(郡内地方)に侵攻する対立関係であった。天文4年(1535年)には今川家当主・氏輝の要請に応えて都留郡に出陣し、山中の戦いにおいて武田信虎の弟・信友を討ち取る大勝を収めている。また、氏輝の妹瑞渓院と氏綱の嫡男氏康の婚姻が成立したのは天文5年(1536年)2月と推定されている。しかし、その直後に今川氏輝が急死すると家督を巡って花倉の乱と呼ばれるお家騒動が起こり、氏綱は栴岳承芳を支持した。承芳が勝利して今川義元として家督を相続するが、翌天文6年(1537年)に義元は信虎の娘定恵院を娶って甲駿同盟を成立させる。義元の真意は花倉の乱で混乱した国内の安定化にあったとみられるが、氏綱はこれに激怒して相駿同盟が破綻し、今川との抗争が勃発した(河東の乱)。後北条軍は駿河国の河東地方(富士川以東)に侵攻して占領し、これにより、今川氏との主従関係を完全に解消して独立を果たした。 後北条氏の房総進出は小弓公方と対立する古河公方の利害と一致するものであり、小弓公方足利義明が古河・関宿への攻撃を画策すると古河公方足利晴氏は氏綱・氏康父子に対し「小弓御退治」を命じた。天文7年(1538年)10月7日、氏綱は小弓公方・足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦う(第一次国府台合戦)。氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した。 『伊佐早文書』によれば、古河公方足利晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという。関東管領補任は幕府の権限であり、関東管領山内上杉憲政が存在する以上、正式なものにはなり得ないが、古河公方を奉ずる氏綱・氏康は東国の伝統勢力に対抗する政治的地位を得たことになる。天文8年(1539年)には氏綱は娘(芳春院)を晴氏に嫁がせ、古河公方との紐帯を強めるとともに足利氏の「御一家」の身分も与えられた。
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