戦国大名の家格と身分秩序
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「戦国大名」の記事における「戦国大名の家格と身分秩序」の解説
戦国時代の大名や武将には、家格や身分にとらわれず己の才覚によって自らの未来を切り開いた、とする通俗的理解が娯楽作品などにより定着している。しかし現実の戦国時代は足利将軍を頂点とした厳格な身分社会であり、官途や官位といった栄典のランクは、社会的な「格」の表れとして重要視されていた。 戦国時代後期、キリスト教の布教のため来日した宣教師たちは当初、天皇を権威だけの権力者としか見ておらず、積極的な評価をしていなかった。しかし実力では天皇を上回る戦国大名たちが天皇に敬意を表す姿を見、権力のみでは把握できない日本の政治構造を知り、天皇や将軍を改めて評価するようになっていった。そして宣教師たちは日本は権力面から見れば連合国家のようにも見えるが、権威の面から見れば統一国家であるとし、そこに戦国期・日本国の政治的重層性を発見した。 このように戦国期の日本国は天皇や朝廷、将軍の権威のもとに国家の統一性が維持されていたが、この事は大名らが天皇・将軍を頂点とした「礼」の秩序の下に身分編成されていることを意味していた。戦国期の大名らは自力で権威を確立することが出来ず、献金・献納を通じて朝廷・天皇から官位・官職の獲得を期待せざるを得なかった。また古河公方や後北条氏が、官途を用いて自らの政治的立場の正当性を主張しているように、戦国期領主らにとって官位・官途は重要視されていた。 天文8年7月、肥前の大名・有馬晴純は在京雑掌の大村純前を介して、室町幕府から修理大夫の任官を、足利義晴からは「晴」字の偏諱を授かった。その後、純前は在京雑掌の任務を終え帰国することになった際、幕府に将軍への謁見を願い出た。当初幕府では有馬氏の被官として活動する大村氏を陪臣と認識し、庭から御目見得させる考えであった。しかし義晴が内談衆に諮問すると大村氏は将軍の直臣であることが明らかになり天文8年閏6月3日、純前は座敷上で将軍に謁見する名誉に浴し、さらに「晴」字の偏諱を願い出て許された。 しかし帰国後、純前は幕府に偏諱の返上の申し出を行った。有馬氏にとって、自らの被官に過ぎない大村氏が偏諱を受けて有馬氏と同格になることは到底受け入れられないことであり、純前の行動は有馬氏に斟酌した結果であった。しかし有馬氏は大村氏を許すことは無く、その後実子の純忠を大村氏に入嗣させ大村氏を乗っ取ってしまった。また永禄5~6年頃、伊予・喜多郡の宇都宮豊綱が将軍に遠江守への補任を求めた時には、同じく伊予の河野通宣が妨害工作を行っており、戦国期の大名・領主たちは自らの家格上昇を望む一方で、周辺勢力が家格を上昇させていくことを許容することは無かった。 家格の違いが軋轢を生み、対外侵攻と失脚を招くこともあった。16世紀前半、陸奥の伊達氏は大名並みの支配を実現していたが、陸奥には同地域の武家秩序の頂点に位置する奥州探題の大崎氏が存在し身分的には国人に過ぎなかった。文亀3年(1503年)に伊達稙宗が越後の上杉氏に送った書状について、「国人」から「大名」への書札礼に適っていないことが上杉氏側で問題になり上杉房能を立腹させたこともあった。そのような状況を打開するため、稙宗は猟官運動に励むようになった。永正14年(1517年)、残存史料から判明するだけでも幕府関係者に太刀7腰・黄金117両(3500貫相当)・馬17疋を、朝廷へは太刀代10貫・馬代20貫・その他仲介料として20貫300文と、膨大な金銭を献上し左京大夫への任官と偏諱を賜った。さらに大永2年(1522年)に稙宗は幕府に奥州探題への補任を求めた。しかし幕府は陸奥守護という「空職」を与えただけで、大崎氏という上級権力が存在する状況は変わることはなかった。その後幕府と距離を置くようになった稙宗は軍事侵攻を重ね領国の拡大に傾注するようになるが、度重なる軍事動員が家中の不満を招き、嫡男晴宗の手によって幽閉されてしまうことになった(伊達氏天文の乱)。稙宗のひ孫にあたる伊達政宗は稙宗について、「(家中の人たちを)恐怖に感じさせた」と語っており、後世、稙宗期の治世が極めてネガティブに受け止められていたことが分かる。 中国地方の戦国大名、毛利隆元は、父である毛利元就の偉業として4~5ヵ国を領有したことと、毛利氏を幕府の御相伴衆に列せられるまで家格を上昇させたことを挙げており、分国の大幅な拡大と幕府内の身分上昇は同等の価値があるものと認識していた。また大内義興は永正9年(1512年)、前年の船岡山合戦の褒賞として朝廷に従三位の位階を求めて、これを賜ることに成功しており、官位は恩賞としても重要なものであった。戦国期の大名たちは、下剋上する成り上り者が結局は官位を得て飾りとする、と言われるように本来的に権威志向的な存在であり、そのため官位・官途の付与者である天皇・将軍は大名らにとって必要不可欠の存在であり続けた。 戦国時代の日本では依然として室町幕府や朝廷は全国政権として存在し続けており、そのため地方の大名たちは朝廷や幕府の認証を受けずに自らの支配の正当性を証明することは困難であった。また地方の戦国大名たちも将軍から偏諱を下賜されるなど、戦国時代においても足利将軍を自らの主君であると認識し続けていた。
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