戦国大名の家格と身分秩序とは? わかりやすく解説

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戦国大名の家格と身分秩序

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 03:57 UTC 版)

戦国大名」の記事における「戦国大名の家格と身分秩序」の解説

戦国時代大名武将には、家格身分とらわれず己の才覚によって自らの未来を切り開いた、とする通俗的理解娯楽作品などにより定着している。しかし現実戦国時代足利将軍頂点とした厳格な身分社会であり、官途官位といった栄典ランクは、社会的な「格」の表れとして重要視されていた。 戦国時代後期キリスト教布教のため来日した宣教師たち当初天皇権威だけの権力者としか見ておらず、積極的な評価をしていなかった。しかし実力では天皇上回る戦国大名たちが天皇敬意を表す姿を見、権力のみでは把握できない日本の政治構造知り天皇将軍改め評価するようになっていった。そして宣教師たち日本権力面から見れば連合国家のようにも見えるが、権威の面から見れば統一国家であるとし、そこに戦国期日本国政治的重層性を発見したこのように戦国期日本国天皇朝廷将軍権威のもとに国家の統一性が維持されていたが、この事は大名らが天皇将軍頂点とした「礼」の秩序の下に身分編成されていることを意味していた。戦国期大名らは自力権威確立することが出来ず献金献納通じて朝廷天皇から官位・官職獲得期待せざるを得なかった。また古河公方後北条氏が、官途用いて自らの政治的立場正当性主張しているように、戦国期領主らにとって官位官途重要視されていた。 天文8年7月肥前大名有馬晴純在京雑掌大村純前を介して室町幕府から修理大夫任官を、足利義晴からは「晴」字の偏諱授かったその後、純前は在京雑掌任務終え帰国することになった際、幕府将軍への謁見願い出た当初幕府では有馬氏被官として活動する大村氏陪臣認識し、庭から御目見得させる考えであった。しかし義晴内談衆諮問すると大村氏将軍直臣であることが明らかになり天文8年6月3日、純前は座敷上で将軍謁見する名誉に浴し、さらに「晴」字の偏諱願い出て許された。 しかし帰国後、純前は幕府偏諱返上申し出行った有馬氏にとって、自らの被官に過ぎない大村氏偏諱受けて有馬氏同格になることは到底受け入れられないことであり、純前の行動有馬氏斟酌した結果であった。しかし有馬氏大村氏を許すことは無くその後実子純忠大村氏に入嗣させ大村氏乗っ取ってしまった。また永禄5~6年頃、伊予喜多郡宇都宮豊綱将軍遠江守への補任求めた時には同じく伊予河野通宣妨害工作行っており、戦国期大名・領主たちは自らの家格上昇を望む一方で周辺勢力家格上昇させていくことを許容することは無かった家格違い軋轢を生み、対外侵攻失脚を招くこともあった。16世紀前半陸奥伊達氏大名並み支配実現していたが、陸奥には同地域の武家秩序頂点位置する奥州探題大崎氏存在し身分的には国人に過ぎなかった。文亀3年1503年)に伊達稙宗越後の上杉氏送った書状について、「国人」から「大名」への書札礼適っていないことが上杉氏側で問題になり上杉房能立腹させたこともあった。そのような状況打開するため、稙宗は猟官運動に励むようになった。永正14年1517年)、残存史料から判明するだけでも幕府関係者太刀7腰・黄金117両(3500貫相当)・馬17疋を、朝廷へは太刀10貫・馬代20貫・その他仲介料として20300文と、膨大な金銭献上し左京大夫への任官偏諱賜った。さらに大永2年1522年)に稙宗は幕府奥州探題への補任求めた。しかし幕府陸奥守護という「空職」を与えただけで、大崎氏という上級権力存在する状況は変わることはなかった。その後幕府距離を置くようになった稙宗は軍事侵攻重ね領国の拡大傾注するうになるが、度重なる軍事動員家中の不満を招き嫡男晴宗の手によって幽閉されてしまうことになった伊達氏天文の乱)。稙宗のひ孫にあたる伊達政宗は稙宗について、「(家中の人たちを)恐怖感じさせた」と語っており、後世、稙宗期の治世極めてネガティブ受け止められていたことが分かる中国地方戦国大名毛利隆元は、父である毛利元就偉業として4~5ヵ国を領有したことと、毛利氏幕府御相伴衆に列せられるまで家格上昇させたことを挙げており、分国大幅な拡大幕府内の身分上昇同等価値があるものと認識していた。また大内義興永正9年1512年)、前年船岡山合戦褒賞として朝廷従三位位階求めて、これを賜ることに成功しており、官位恩賞としても重要なものであった戦国期大名たちは、下剋上する成り上り者結局は官位得て飾りとする、と言われるように本来的に権威志向的存在であり、そのため官位官途付与者である天皇将軍大名らにとって必要不可欠存在であり続けた戦国時代の日本では依然として室町幕府朝廷全国政権として存在し続けており、そのため地方大名たちは朝廷幕府認証受けずに自らの支配正当性証明することは困難であった。また地方戦国大名たちも将軍から偏諱下賜されるなど、戦国時代においても足利将軍を自らの主君であると認識し続けていた。

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