戦国時代後期とは? わかりやすく解説

戦国時代後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 02:48 UTC 版)

蓮池城 (肥前国)」の記事における「戦国時代後期」の解説

佐賀城龍造寺隆信侵攻を受け、小田政光龍造寺氏臣従した。のちに城主小田鎮光が降伏すると、龍造寺氏支配となり、後藤家信龍造寺家晴城主となる。天正12年1584年)、龍造寺隆信沖田畷の戦い戦死すると、隆信次男江上家種入城したが、文禄の役戦死により、鍋島直茂居城となった

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戦国時代・後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 12:33 UTC 版)

上杉氏」の記事における「戦国時代・後期」の解説

上杉謙信越後拠点として領国関東北陸拡大したが、北条氏政との抗争によって武蔵など関東地方領国をほぼ喪失した2度の上洛で弾正少弼任じられ元亀4年1573年8月越中平定天正5年1577年7月には七尾城末森城が自落し能登平定同年9月には、加賀国手取川織田軍を破る。 佐渡本間氏越中椎名氏神保氏飛騨江馬氏三木姉小路)氏、上野沼田氏信濃高梨氏下野佐野氏陸奥大崎氏ゆるやかな従属下に置いた加賀の一向一揆とは同盟し松任城に守将を派遣した能登畠山氏出羽大宝寺武藤)氏からは人質畠山義春大宝寺義氏上杉姓を名乗った時期もあり、謙信寄騎として従軍した)を取った越前朝倉氏滅亡後には朝倉景嘉保護した上杉一族である武蔵深谷氏一時的に支配下置いたが、前述のように北条氏政姻戚外交政略により傘下から離脱した謙信晩年、かつての不倶戴天の敵ともいえる北条武田父祖の仇である越中一向一揆などと和睦同盟不戦方針転じ、これが奏功して北陸方面への勢力拡大はなったが、関東信濃諸大名の不満も招いた謙信の死後、2人養子景勝上田長尾家出身謙信の甥)と景虎北条氏康の子)の間で家督争い御館の乱)が起こりこの内乱によって従属下の勢力独立したり、あるいは織田北条武田伊達傘下に入るなど、上杉家影響力著しく低下した。この争い景勝勝利して上杉氏名跡継承するが、謙信景勝以降米沢藩上杉家では、謙信初代景勝2代称している。なお、景勝自身母方から越後守護系の上上杉家の血も引いており、上杉氏本来の血統断絶したわけではない

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