戦国時代後期
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佐賀城主龍造寺隆信の侵攻を受け、小田政光は龍造寺氏に臣従した。のちに城主小田鎮光が降伏すると、龍造寺氏の支配となり、後藤家信、龍造寺家晴が城主となる。天正12年(1584年)、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、隆信の次男江上家種が入城したが、文禄の役で戦死により、鍋島直茂の居城となった。
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戦国時代・後期
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上杉謙信は越後を拠点として領国を関東と北陸に拡大したが、北条氏政との抗争によって武蔵など関東地方の領国をほぼ喪失した。2度の上洛で弾正少弼に任じられ、元亀4年(1573年)8月に越中を平定。天正5年(1577年)7月には七尾城と末森城が自落し、能登を平定。同年9月には、加賀国手取川で織田軍を破る。 佐渡の本間氏、越中の椎名氏・神保氏、飛騨の江馬氏・三木(姉小路)氏、上野の沼田氏、信濃の高梨氏、下野の佐野氏、陸奥の大崎氏をゆるやかな従属下に置いた。加賀の一向一揆とは同盟し、松任城に守将を派遣した。能登の畠山氏、出羽の大宝寺(武藤)氏からは人質(畠山義春と大宝寺義氏は上杉姓を名乗った時期もあり、謙信の寄騎として従軍した)を取った。越前の朝倉氏滅亡後には朝倉景嘉を保護した。上杉一族である武蔵の深谷氏も一時的に支配下に置いたが、前述のように北条氏政の姻戚・外交政略により傘下から離脱した。 謙信は晩年、かつての不倶戴天の敵ともいえる北条や武田、父祖の仇である越中一向一揆などと和睦や同盟、不戦の方針に転じ、これが奏功して北陸方面への勢力拡大にはなったが、関東や信濃の諸大名の不満も招いた。 謙信の死後、2人の養子景勝(上田長尾家出身、謙信の甥)と景虎(北条氏康の子)の間で家督争い(御館の乱)が起こり、この内乱によって従属下の勢力は独立したり、あるいは織田・北条・武田・伊達の傘下に入るなど、上杉家の影響力は著しく低下した。この争いは景勝が勝利して上杉氏の名跡を継承するが、謙信・景勝以降の米沢藩上杉家では、謙信を初代、景勝を2代と称している。なお、景勝自身は母方から越後守護系の上条上杉家の血も引いており、上杉氏本来の血統が断絶したわけではない。
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