加賀の一向一揆とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 加賀の一向一揆の意味・解説 

かが‐の‐いっこういっき〔‐イツカウイツキ〕【加賀の一向一揆】

読み方:かがのいっこういっき

長享2年(1488)加賀一向宗門徒僧侶国人農民らが守護富樫政親倒し以後90余年わたって加賀一国内を支配運営した一揆


加賀一向一揆

(加賀の一向一揆 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/29 03:22 UTC 版)

加賀一向一揆
戦争戦国時代 (日本)
年月日:長享2年〜天正8年
場所加賀国
結果:織田勢による加賀一揆解体
  1. 加賀守護・富樫氏の滅亡
  2. 門徒領国の成立
  3. 一向衆徒の殲滅
交戦勢力
一向一揆軍 征討軍
指導者・指揮官
蓮如
下間蓮崇
蓮淳
富樫泰高
杉浦玄任
富樫政親 足利義尚朝倉貞景朝倉義景上杉謙信[注釈 1]簗田広正柴田勝家佐久間盛政
戦力
十数万 十数万
損害
数万 諸将の戦死

加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)は、長享2年(1488年)頃から天正8年(1580年)にかけて、加賀本願寺門徒(一向衆徒)が中心となった国人や農民による惣国一揆

概要

蓮如上人の銅像

蓮如文明6年(1474年)〜文明7年(1475年)の間、吉崎御坊福井県あわら市)に滞在した。蓮如は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合していった。文明5年(1473年)には富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した(文明の一揆)。

蓮如はこれによって守護の保護を受ける事を期待していた[注釈 2]。が、逆に政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて文明7年に門徒の弾圧を開始、蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。

ところが、今度は越中砺波郡の石黒光義が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、文明13年(1481年)に越中で一揆が発生し、光義が討ち取られる(越中一向一揆田屋川原の戦い)。

また、政親は加賀の一国支配の認知を目指して9代将軍足利義尚による六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。長享2年(1488年)には、代わりに富樫泰高を守護に擁立して、10万とも20万とも言われる軍勢で1万余の籠城兵を率い高尾城に籠もる政親を滅ぼした。以後、天正8年(1580年)に織田信長に敗れるまでの90年間、加賀は百姓の持ちたる国と呼ばれる状況となった(長享の一揆)。

足利義尚は一向一揆の討伐を検討したが、細川政元の反対と義尚の死により一向一揆討伐と六角高頼遠征は中止となった。以後、加賀に宗主代理の一門衆(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)が在住し、次第に国人層から本願寺による加賀支配に移行していった。

ところが、永正3年(1506年)に一向一揆を抑圧する周辺諸国への進撃を行って失敗(九頭竜川の戦い般若野の戦い)した頃から、一門衆による統治に動揺を来たし始める。

続いて本願寺中央が一門衆を抑圧しようとした事から、享禄4年(1531年)には大小一揆と呼ばれる内紛に発展して多くの一門衆やこれに従った国人衆が粛清された(享禄錯乱)。

天文15年(1546年)に尾山御坊(金沢御堂)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。弘治元年(1555年)、永禄7年(1564年)に朝倉氏と、1570年代前半は上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。

元亀3年(1572年)は杉浦玄任を総大将とする一揆勢が上杉軍と数ヶ月に渡って激突、各地で上杉軍を破るなど猛威を振るった。しかし謙信率いる上杉本隊が到着するに至り戦況が悪化し、尻垂坂の戦いで大敗を喫し、一揆の勢いに陰りが見え始める。

天正8年に石山本願寺が降伏し、尾山御坊も陥落した。また教如の檄により最後まで抵抗を続けた白山麓の一揆が天正10年(1582年)3月に鎮圧され、一揆は解体された。尾山御坊を攻略したのは佐久間盛政だった(一揆を沈静化させたのは前田利家だった、と言う説がある)。

脚注

注釈

  1. ^ 上杉謙信も、加賀一向一揆と戦うが、戦場は越中国で、加賀での鎮圧にはあたっていない。天正4年には謙信と本願寺派は和睦した。
  2. ^ 長年、本願寺においては蓮如は平和主義者で一向一揆には否定的とされ、一連の一揆も側近の下間蓮崇の策動とされてきたが、近年の研究で同時期に蓮如が太刀を新調した(文明6年10月8日付門徒あての御文。それに相応すると見られる太刀は現在大阪歴史博物館にある)ことが明らかになっており、この時には主導的な役割を果たしていたと思われる[1]。ただし、僧侶が刀剣を所持するのは数珠丸恒次という名刀を持った日蓮の例もあり、一向一揆と関係あるかは断定できない。

出典

  1. ^ 辻川達雄『蓮如と七人の息子』誠文堂新光社、1996年、95-107頁。ISBN 4-416-89620-4 

関連項目

外部リンク



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「加賀の一向一揆」の関連用語

加賀の一向一揆のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



加賀の一向一揆のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの加賀一向一揆 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS