戦いの背景
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1355年、それまで盗賊とさほど変わらなかった朱元璋の軍は、南下して長江を越えて元朝支配の太平(現在の当塗県)を奪い、次いで1356年に集慶(現在の南京市)を落として応天府と改名し、ようやく根拠地を得ていた。ところが1360年、江州(現在の九江市)を根拠地として力を付けていた陳友諒に、太平を奪われてしまう。陳友諒はさらに応天府にまで攻め込むが、朱元璋の奇計により敗北する。これにより、これまで優勢であった陳友諒と朱元璋の立場が逆転した。 1361年には陳友諒は安慶、江州、南昌という拠点を奪われ、武昌(現在の武漢市)にまで撤退を余儀なくされる。
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戦いの背景
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「ナチス・ドイツのフランス侵攻」の記事における「戦いの背景」の解説
ヒトラーは、ポーランド侵攻の直後に西部戦線での戦闘を予定していたが、欧州の冬の悪天候は空軍の支援に向いてなく、翌年に延期された。一向に戦闘が始まらないこの戦争を、イギリス人、アメリカ人は「奇妙な戦争」、ドイツ人は「座り込み戦争」と称した。 マジノ線の建設により、フランス領内への直接侵攻が困難となったこともあり、当初のフランス侵攻作戦計画は第一次世界大戦に行ったシュリーフェン・プランを踏襲する予定であった。しかし1940年1月10日、ドイツ空軍第2航空艦隊参謀将校が、第一次黄色作戦での第2航空艦隊運用計画書を所持したまま、ベルギー領内へ不時着してベルギー軍憲兵に逮捕され、焼却に失敗した書類の一部が押収されるという事件が発生した(メヘレン事件)。 そのため作戦内容が連合軍側へ漏洩してしまったと想定せねばならず、1月16日にヒトラーは作戦内容の変更を決意した。検討の結果、第一次世界大戦に従軍して西部戦線で悲惨な塹壕戦を経験しており、シュリーフェン・プランに不満を抱いていたヒトラーの後押しもあり、当時中将だったエーリッヒ・フォン・マンシュタインの作戦計画(マンシュタイン計画)が採用された。これはシュリーフェン・プランと同様、ドイツ軍主力はベルギーから攻め込み、英仏海峡に達するというものではあったが、攻勢正面をベルギー北部の平野部に置くシュリーフェン・プランと異なり、ベルギー南部からルクセンブルクまでのアルデンヌ森林地帯を攻勢正面としていた。 マンシュタイン計画に基づいて、ドイツ軍はマジノ線に対抗するC軍集団、ベルギーとオランダに侵攻する歩兵主体のB軍集団と、アルデンヌの森林地帯を抜ける装甲師団主体のA軍集団の三つに分かれ、1940年5月10日一斉に攻勢を開始した。これに対し、フランス軍とイギリス海外派遣軍(BEF)は、ディール計画に基づいて、ベルギー領内に進軍した。
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戦いの背景
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「スターリングラード攻防戦」の記事における「戦いの背景」の解説
バルバロッサ作戦に着手したドイツ軍は、1941年12月に首都モスクワの攻略タイフーン作戦を試みたが、補給の限界や冬季ロシアという気象条件に遭遇して失敗した。一方、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは、追い討ちをかけるべく反転攻勢を命じ、ソ連軍は1月にレニングラードからクリミアまでの全戦線で攻勢をかけた。しかし、それは戦力や補給能力を超えたものであり、攻勢は失敗して戦線に若干の凸凹をつけた程度で終わり、雪解け期を迎えた。一方、ドイツ軍は大きな損害を出したものの、ノブゴロド、スモレンスク、ハリコフといった重要地帯を維持した。なお、ハリコフの南方にはソ連軍の大きな突出部が形成された。 雪解け期の間、独ソ両軍はさらなる戦略を検討したが、ソ連軍は突出部を利用して南北からハリコフを挟撃し、奪還するという春季攻勢を立案した。一方、ドイツ軍は夏季攻勢プランとして、ブラウ作戦を立案したが、その前の準備的作戦として、ソ連軍突出部を裁断するフレデリクス計画を策定していた。 両軍が次の展開に向けた動きを策定する中、先に作戦準備を完了したのはソ連軍で、南西方面軍(セミョーン・チモシェンコ元帥)は1942年5月、ハリコフ奪還を狙った春季攻勢を開始した。しかし、ドイツ軍の第6軍と第1装甲軍による突出部後方での南北からの挟撃により、突出部から前進したソ連軍の攻勢部隊は後方を遮断されて壊滅した(第二次ハリコフ攻防戦)。こうしてロシア南部戦域での独ソの軍事バランスはドイツ軍有利に傾き、ソ連軍はドン河を目指して撤退を開始することとなった。
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戦いの背景
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紀元前261年、ローマはシチリア南西に位置するカルタゴの拠点、アグリゲントゥム(アクラガス、現在のアグリジェント)の攻略に成功する。さらにローマは、カルタゴのもつ地中海での制海権を奪取するために、艦隊を新設した。しかしながら、ポエニ戦争開始時のローマには、艦隊どころか本格的な海戦の経験すらない状況であった。一方のカルタゴは、何世紀も海上貿易で富を築いた交易国家であり、海戦の経験も、軍船の数も、ローマに対して圧倒的に有利な状況にあった。その海戦の不利をくつがえすために、ローマは新たに進水した軍船に、特殊な乗船器具コルウス(カラス装置)を装備させていた。このカラス装置で敵船を捉えることにより、乗船隊として軍団を敵船に乗り込ませることを可能にした。これにより、ローマは苦手な海戦を陸戦化させることに成功し、ミラエ沖の海戦などでも勝利を重ね、ついにはカルタゴ本国の北アフリカ(現チュニジア)の侵攻も視野に入る状況となった。 しかし北アフリカへの海外遠征を実行するためには、大規模な軍勢と物資を運ぶための輸送船団も同時に必要となる。その補給線を断つために、カルタゴもシチリア海岸一帯のパトロールを行っていた。そこでローマは、輸送船団が安全に地中海を横断し北アフリカに到着できるよう、護衛艦隊として200隻を超える大型ガレー船を進水させた。そして紀元前256年、2人の執政官ルキウス・マンリウス・ウルソ・ロングスとマルクス・アティリウス・レグルスは、北アフリカ侵攻のためこの大艦隊を出発させた。 対するカルタゴも、このローマ船団を北アフリカ上陸前に叩くべく同規模の艦隊を動員した。カルタゴ艦隊はハミルカル(en)と大ハンノが指揮した。
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戦いの背景
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西方電撃戦後、1940年6月22日独仏休戦協定が締結され、北アフリカのアルジェリア・チュニジア・モロッコもナチス・ドイツの傀儡であるペタン元帥のヴィシー政権の統治下となった。 1940年9月、イタリア軍はこれに乗じて自国の植民地リビアから、東のエジプトへ侵攻し、一旦はエジプト領シディ・バラーニまで攻め込んだものの兵站上の理由でそれ以東へは進めなかった。これに対し、イギリス軍は1940年12月9日に コンパス作戦を開始し、イタリア軍を撃退して、逆にリビアにまで攻め込んだ。重要な同盟国の領土を失わせる訳にはいかないと考えたヒトラーは1941年2月、ロンメルを司令官としてドイツアフリカ軍団を北アフリカ戦線に投入した。 北アフリカに着いたロンメルは1941年3月24日反攻を開始して、4月4日にベンガジを奪回、4月12日にはエジプト国境近くのバルディアを占領し、エジプトとトブルクの連絡を遮断した。さらに4月14日には包囲したトブルクへの攻撃を開始するまでになった。しかしながら、トブルク守備隊の抵抗とこれまでの戦闘による戦力の消耗のため、トブルクを攻略できなかった。これに対し、5月15日からのブレヴィティ作戦をはじめとしてイギリス軍も3回に渡り反撃作戦を行い、この3回目の反撃作戦がクルセーダー作戦であった。 詳細は「ブレヴィティ作戦」を参照 詳細は「バトルアクス作戦」を参照
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戦いの背景
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長引く戦争で人的にも経済的にも疲弊しきったドイツは、もはやこれ以上長期化する戦争には勝利することはできないこと、迫りくるアメリカ軍はますます多くなるのが確実なことを悟っていた。その状況の中で戦争に勝利するためには新しい歩兵戦術の活用と迅速な攻勢により、決定的な勝利を得る必要があると判断した。独軍参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフはアメリカ軍の存在が致命的となる前、1918年春に攻勢をかけて英仏軍に壊滅的な打撃を与え、休戦に追い込もうと考えた。 そこでまず、ブレスト=リトフスク条約によってソビエト政権と単独講和し、東部戦線を終結させ、東部戦線のドイツ軍を西部戦線に転進させて西部戦線における英仏軍との数的優位を作った。 また、イタリア戦線では、同盟国のオーストリア=ハンガリーを助け、カポレットの戦いでイタリア軍に圧勝し、墺軍の崩壊を押しとどめ、西部戦線への攻勢に専念できる態勢を構築した。 次に膠着しきった塹壕戦で敵の塹壕を突破するためにルーデンドルフは、浸透戦術の徹底、航空機の活用、詳細な砲撃計画、毒ガスの大規模な使用によって英仏両軍の中間に攻勢をかけ、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標とする戦略をたてた。 こうして、ドイツ軍が着々と攻勢の準備を進める中で、連合国軍は未だに士気と統一指揮権を巡って問題が発生していた。
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戦いの背景
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1578年3月、上杉謙信が急死し、その後継者争い「御館の乱」が勃発すると、織田信長はこれを好機と捉え、4月には上杉氏勢力下にある越中国を攻略すべく、越中出身で越中守護代家の由緒をもつ神保長住に佐々長穐らの兵をつけて飛騨口から侵攻させた。 当時北陸侵攻に当たっていた柴田勝家は加賀の一向一揆に手間取っており、能登も上杉方が保持していた。そこで、飛騨国口から越中を攻略することによってこれら前線の上杉軍と越後との連絡を絶ち、分断撃破する戦略があったと思われる。神保長住は神保旧臣や国人衆を味方につけて砺波郡の増山城を攻略するなど一定の成果を挙げたが、越中国内は依然として上杉氏優勢であった。 9月、織田信忠付の重臣斎藤利治率いる美濃・尾張の兵が援軍として越中戦線に送られた。
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戦いの背景
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因幡守護の山名誠通が山名祐豊によって討たれた後の因幡は但馬山名氏の治める所となっていた。山名豊定の死後、祐豊の子・山名棟豊が守護職を継承するが、就任して約1年半後の永禄4年(1561年)に死去してしまった。棟豊の死後、今度は豊定の子息・山名豊数が因幡守護に送られた。その頃、鳥取城主の武田高信は布施屋形(豊数)からの離脱と独立を画策していた。高信は永禄5年(1562年)の末~翌年初めにかけて布施屋形から離脱、永禄6年(1563年)3月には豊数と「因州之屋形武田取相(とりあい)」に及んでいる。
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戦いの背景
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南部氏からの独立を目指す大浦為信(後の津軽為信)は、大光寺城・石川城・浪岡城など南部氏や浪岡氏側の国人の諸城を攻略した。 それにより、滝本重行や浪岡一族などの多くの諸将が、主家の南部氏や出羽国の安東氏などのもとに逃れた。また、浪岡氏を滅ぼしたことにより、安東氏との関係も悪化した。
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戦いの背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:24 UTC 版)
「エル・アラメインの戦い」の記事における「戦いの背景」の解説
ガザラの戦いでトブルク前面の陣地線(ガザラライン)を突破したドイツ軍は、1942年6月18日にはトブルク要塞を包囲した。次に控えるエジプト侵攻を考えると、戦車部隊での突破は難しかった。そこで航空戦力の支援の元、歩兵と砲兵による攻撃を主体とした。十分な安全が確保された後、戦車隊を突入させた。英軍に反撃の余力は無く、20日朝に始まった戦闘は21日朝には終結した。 これが英軍に与えた打撃は大きく、英軍はエジプト領内奥部のエル・アラメインに最終決戦陣地を敷いた。エル・アラメインを占領されると北アフリカの主要な軍港は全て陥落した事となり、これにより輸送船による増援が不可能となるだけでなく、その先にあるエジプトまでもが征服されると、中東の産油地帯はドイツ軍に蹂躙され、同時期にソ連南部コーカサス地方を攻撃していたドイツ軍A軍集団に挟撃され、ソ連の油田まで占領されてしまう恐れがあった。英軍にとって幸いなことに、エル・アラメイン南方に広がるカッターラ低地は、半ば干上がった湿地帯であった。半ば干上がっていても湿地帯は湿地帯であり、塩水の沼地と生乾きの泥と泥が乾いた微細で底深い流砂は装甲車両の通行を阻んだ。 ドイツ軍はそれまでの常勝策であった内陸部経由の戦略的な迂回を行えず、エル・アラメインへの正面攻撃を繰り返すしかなかった。正面での消耗戦の始まりであった。ロンメルは7月1日にエル・アラメインへの攻撃を開始したが英軍の抵抗に阻まれ、22日には攻撃を中断した(第一次エル・アラメイン会戦)。 こうした状況の中でアメリカ軍の本格的な参戦が決定し、レンドリース法(武器貸与法)によってイギリス軍は米国から300輌以上のM4中戦車と大量の航空機の増援を受けた。対してエルヴィン・ロンメル指揮下のドイツ装甲師団は連戦連勝を収めていたものの、補給の途絶えた中で消耗しており、戦車はドイツ製のものが90輌、イタリア製の戦車が130輌で残りは鹵獲戦車であった。 ロンメルは弾薬と燃料の欠乏を解決するために、イタリア軍総司令部と空軍司令アルベルト・ケッセルリンクに戦争継続に必要な物資と1万5000トン以上の燃料を輸送するよう約束させたが、輸送船の到着するベンガジ港から前線まで約900km、最寄のトブルク港からでも約450kmと離れており補給線が延びたために時間がかかった。トブルク港への輸送はマルタ島駐留の英軍を主力とする連合軍に制空権を握られていたために輸送船は途中で撃沈され、東部戦線ではスターリングラード攻防戦が起きドイツはほぼ全軍を投じたため、北アフリカ戦線は二の次三の次とされ補給は一向に届かなかった。 こうした状態で、連合軍の大反攻が開始された。
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戦いの背景
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1944年6月22日、ソビエト赤軍によって開始されたバグラチオン作戦の結果、ドイツ軍はソ連領からほぼ駆逐された。1945年1月20日、赤軍は東プロイセンに侵入、遂にドイツ領内へ進撃した。参謀総長ハインツ・グデーリアンはラジオ放送を通じて「赤軍本土侵攻」を報じ国民の注意を喚起、ヒトラーにベルリン防衛の強化を進言するが、ヒトラーは1月23日の会議でオーストリアとドイツの石油の80%を供給するハンガリーの防衛を優先、ベルリン防衛予定部隊から第6SS装甲軍を抽出してハンガリーに派遣することを決定した(春の目覚め作戦)。しかし、この部隊は派遣先のハンガリーで壊滅した。 3月28日、ヒトラーはキュストリン橋頭堡の失陥をめぐって対立したハインツ・グデーリアンを参謀総長から解任、後任にハンス・クレープスを任命した。状況は悪化しており、首都ベルリンの運命はオーダー河戦線のヴァイクセル軍集団隷下の第3装甲軍と第9軍、中央軍集団隷下の第4装甲軍に委ねられていた。しかし予備兵力は薄く、書類上は師団でもその戦力は著しく低下しており、国民擲弾兵や武装SSの外国人義勇兵など、即席部隊で対応しなければならなかった。また、その即席部隊は末端兵士だけでなく、指揮官も忠誠心の強さのみで取り立てられたものが多かった。そのため、実質的な指揮官は叩き上げの軍人であるヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将やヴィルヘルム・モーンケSS少将らに委ねられている状態であった。
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