戦いの規模に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 15:29 UTC 版)
「手取川の戦い」の記事における「戦いの規模に関する議論」の解説
記録が少なく実像が不明確なことから、その帰趨(上杉軍大勝)や規模については議論がある。 『信長公記』には「柴田勝家等の出陣の記述及び羽柴秀吉の戦線離脱」の記述はあるものの合戦の記述はなく、『長家家譜』(長家)では「七尾城への援軍として織田勢4万が出陣したが、落城の報に接し、秀吉は戦わずして帰陣した」ことが記述されている。 明治時代から編纂され続けている『大日本史料』では、手取川で合戦が行われ、織田軍が大敗したという記述は採用されていない。『天正5年9月23日、上杉謙信、加賀湊川に出陣す、仍りて、信長の將柴田勝家等、兵を班す、是日、謙信、之を追撃す』(歴代古案・笹生文書・原本信長記・北越軍記・越登賀三州志・常山紀談)という記述である。 井上鋭夫の『一向一揆の研究』(吉川弘文館)では、天正5年9月25日(井上注あり)に謙信方についた刑部卿法眼下間頼廉が能美郡の旗本宇津呂丹波の内者であった堀才助宛に夜襲における感状を給付しているため、織田と上杉方の間で夜戦があったとしている。
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