戦いの評価と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 10:04 UTC 版)
「グロースゲルシェンの戦い」の記事における「戦いの評価と影響」の解説
ナポレオンは、どうしても必要であった勝利を得た。しかしその代わり損害は非常に大きく、ナポレオンは連合軍に決定的な打撃を与えるという主目的を達成できなかった。5月8日、連合軍はドレスデンから撤退し、エルベ川を渡ってシュレーズィエンへ退く。ザクセン全土は、再びナポレオンの支配下に入った。 フランス軍の騎兵が不足した結果、追撃は行われなかった。ナポレオンはおよそ20,000名を失った一方、プロイセン軍は8,500名、ロシア軍は3,500名の死傷者と行方不明者を出している。連合軍の損害は騎兵と砲兵を効果的に運用したおかげで、並みの程度に留まった。ヘッセン=ホンブルク公子レオポルト(英語版)は戦没し、ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト中将も膝に銃弾を受け、手当の不足によって8週間後に亡くなった。 グロースゲルシェンの戦いの後の晩、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はロシア皇帝アレクサンドル1世とともにロシア軍の陣営を視察した。ここで王は兵士のように、ロシア軍の習慣となっていた帰営ラッパ(ドイツ語版)後のコラール合唱を体験する。感銘を受け、心を打たれた彼は1813年8月10日の内閣令でプロイセン軍においても帰営ラッパ後の祈祷を導入させた。こうして帰営ラッパは、ひとまずプロイセン王国内のみとはいえ、儀式的な意味を持つに至ったのである。
※この「戦いの評価と影響」の解説は、「グロースゲルシェンの戦い」の解説の一部です。
「戦いの評価と影響」を含む「グロースゲルシェンの戦い」の記事については、「グロースゲルシェンの戦い」の概要を参照ください。
- 戦いの評価と影響のページへのリンク