戦いまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 22:38 UTC 版)
ウェルキンゲトリクスの元で決起したガリア連合軍を撃破すべく、カエサルはローマ軍を率いてガリアへと侵攻。ノウィオドゥヌム(現:ヌヴェール)、ウェッラウノドゥヌム(現:ヴィヨン)、ケナブム(現:オルレアン)を手中に収め、アウァリクム(現:ブールジュ)も激戦の末にローマ軍が陥落させた(アウァリクム包囲戦)。 冬も終わりに近づき、春も迫った戦いを仕掛けるのに好都合な時期であったことから、カエサルはアルウェルニ族の主たる城市ゲルゴウィア(現:クレルモン=フェラン近郊)へと更なる侵攻を目論んだものの、ハエドゥイ族より「主導権争いにより生じた部族内の内紛を調停して欲しい」との要請を受けた。ハエドゥイ族がウェルキンゲトリクス側へ寝返りを起さないように釘をさす意味もあって、カエサルは同部族の領土内のデケティア(Decetia、現:ドシーズ)へ向かい、コンウィクトリタウィス(Convictolitanis)が長官となり主導権を持ち、争っていたコトゥス(Cotus)らに従うよう裁定した。 ハエドゥイ族の調停が済んだ後、カエサルはローマ軍団を2分して、10個軍団の内の4個軍団をウェルキンゲトリクスに呼応して反ローマで決起したセノネス族とパリシイ族に対応させるべくティトゥス・ラビエヌスと共にルテティア(現:パリ)方面へと派遣し、残りの6個軍団及びゲルマン騎兵をカエサル自らが率いて、アルウェルニ族の本拠・ゲルゴウィアへと進軍することとした。なお、ハエドゥイ族からの支援軍(アウクシリア)は後にゲルゴウィアへ向かうこととした。 ウェルキンゲトリクスはエラウェル川(現:アリエ川)に架かっている全ての橋を破壊して、エラウェル川の向こう岸(ゲルゴウィア側)に沿って進軍した。カエサル軍はガリア軍からの攻撃こそ受けなかったが、ウェルキンゲトリクスは偵察兵をエラウェル沿いに送り出して、カエサルが川を渡るのを見張っていた。そのため、カエサルは渡河することが困難であったが、ガリア軍を牽制する部隊と橋を構築する部隊の2手に軍を分けることでこれに対応し、ゲルマニア遠征での架橋経験も活かして早期に架橋を完了させ、エラウェル川を渡った。
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戦いまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 04:01 UTC 版)
紀元前315年、共和政ローマはルキウス・パピリウス・クルソルとクィントゥス・プブリリウス・ピロ を執政官(コンスル)に選出した。両者ともに5年前の紀元前320年にも執政官を務めており、このときには前年のカウディウムの屈辱後の処理を行っていた。 執政官として、パピリウス・クルソルはアプリアに遠征しルケリアでサムニウム軍と戦い、プブリリウス・ピロはカンパニアのサティキュラでサムニウムを攻撃した。同時にクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルッリアヌスが率いる別のローマ軍がリリス平原のサトゥリクム(en)でのウォルスキ族の反乱を鎮圧していた。これは論理的にはローマの南方への拡大を意味していたが、後日判明したように、軍事力を分散させるという危険を伴っていた。 アプリアではパピリウス・クルソルはサムニウムが支配するルケリアの攻囲し、リリス渓谷ではファビウス・ルッリアヌスがサトゥリクムを奪回することに成功した。しかしカンパニアでの作戦には問題が生じていた。サムニウムはプブリリウス・ピロを撃破するか、あるいはその攻撃をかわしてラティウムに進出しようとしていたことが、文書に残されている。ファビウス・ルッリアヌスはラティウムを防衛できる位置にある唯一の将軍であった。彼は内陸部の道路を防御することを選択したが、サムニウム軍は着実に前進してきた。フレゲラエ(en)に到着した時点で、ファビウス・ルッリアヌスはトレルス渓谷に沿ってローマに向かうか、ローマ領土が分断される可能性はあるものの左折するかを選択せざるを得なくなった。彼は後者を選んだが、結果副官のクィントゥス・アウリウス・ケッレタヌスがラウトゥラエでサムニウム軍とぶつかることとなった。
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