戦いの規模
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 00:02 UTC 版)
この戦いは大きな戦闘は無かったのではないかという説もある。澄元・之長軍は3千名前後しかおらず、この戦力で京都奪還を目指すというのは戦上手である之長が立案するとは考えにくく、戦局の打開、阿波へ逃げ帰る事が目的であったとも思われている。また、「夜大雨になったのを利用して走った」という記述を見受けられるため(『実隆公記』)、両陣営は対峙したが、夜陰の大雨にまぎれて逃げ去ったという説もある。 ただ、公家日記によると京都周辺で落武者への追討が行われ、60名前後が捕縛、処刑されたとあるので、小規模な戦闘はあったと思われている。 馬部隆弘の見解によれば、当初は祖父である阿波の細川成之との挟撃を狙っていたものの、元々細川澄之側であった讃岐の香川氏・香西氏・安富氏らが高国に呼応して永正5年2月頃より澄元側の寒川氏や阿波への侵攻があったことを指摘しており、讃岐勢の侵入を警戒した成之が出陣を控えたために勝機を失った澄元が阿波への撤退に踏み切らざるを得なかったとしている。また、この件がきっかけになって成之や之持(成之の孫で澄元の実兄)が領国・阿波の保持を優先して高国との戦いに消極的になり、その後の澄元の戦いの不振の一因になったことも指摘している。
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