きゅう‐せん〔キウ‐〕【休戦】
停戦
休戦
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1871年1月18日、パリに本拠を置く国防政府はプロイセンと休戦交渉を行った。パリの食糧が欠乏し、ガンベタの地方軍は度重なる敗戦で浮足立っている状況を受けて、1月24日フランス外相ジュール・ファーブルはビスマルクと講和条件を議論するためにヴェルサイユに赴いた。また、ナポレオン三世の愛人であったヴィルジニア・オルドイーニがビスマルクと会見し、プロイセンによる「パリ占領」がいかに"致命的"なものになるかを説得した。 ビスマルクは、国防政府がパリ郊外の幾つかの主要な要塞をプロイセン軍に明け渡すという条件の下で、直ちにパリ包囲を中止し、食糧(ドイツ軍の兵糧数百万食も含む)を搬入することに合意した。これらの要塞がなければ、フランス軍はもはやパリを防衛することはできない。パリの世論はプロイセンに対するいかなる形の開城にも譲歩にも強く反対していたが、国防政府の認識では、譲歩せずに戦争を続けた所でパリ陥落はもはや時間の問題であり、ガンベタの地方軍もドイツ軍を突破してパリを救うことはほぼ不可能であろうという認識であった。1月25日、ジュール・トロシュ首相は辞任して、ジュール・ファーブルがその後任となり、その2日後ファーブル首相はヴェルサイユにて降伏文書に署名し、翌午前0時に休戦が発効した。幾つかの情報源によれば、ファーブルはパリに戻る移動の途中で涙を流し、彼の娘の腕の中に泣き崩れたという。そして真夜中、パリ周辺の銃声は止んだ。 1月30日、ガンベタはトゥールでパリからの通信を受け取り、政府が降伏したと知らされた。彼は怒り狂って降伏を拒否し、直ちにオルレアンのドイツ軍に攻撃を開始した。その攻撃は、予想されていたとおり、失敗した。2月5日、パリの外交部の代理人がガンベタと討議するためにトゥールに到着し、翌日ガンベタは辞任して地方軍の指揮権を国防政府に返し、国防政府は直ちにフランス全土での休戦を命じた。
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休戦
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「ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)」の記事における「休戦」の解説
ロシアによるポーランド・リトアニア共和国に対する進撃は、これを好機と見たスウェーデン王カール10世グスタフによる北方戦争を引き起こした。スウェーデンは共和国の首都ワルシャワに進駐した。これを受け、アファナシー・オルディン=ナシチョーキンはポーランド人との交渉を開始して、11月2日に休戦した。その後、ロシアはロシア・スウェーデン戦争を引き起こしてスウェーデン領リヴォニアに攻め入り、リガを包囲した。 リヴォニアにおける複雑な情勢はウクライナの政情に悪影響を及ぼした。共和国を敵とするフメリニツキーはスウェーデンを同盟者と見ており、この休戦をロシアの裏切りと考えて、1657年8月に急死するまでツァーリと手を切るための計画を練っていた。彼の後継者となったイヴァン・ヴィホーウシクィイは、共和国内で孤立化したスウェーデン軍を破って国外に追い出したポーランド人達とハージャチの和約を結んで和解することを選択した。
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休戦
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「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「休戦」の解説
スモレンスク陥落後、1612年から1617年の間、ロシア・ポーランド間の国境はしばらく静かだったが、公式な休戦協定はまだなかった。シュラフタ(貴族)たちが構成するセイム(議会)は、ジグムント3世がモスクワを守りきれなかったことを責めた。彼らは、軍事費の負担が自分たちの上にのしかかるために王に税を払うのに抵抗感を持ってきたが、抵抗はさらに強まりジグムント3世はわずかな軍事費しか集められなくなった。ポーランド正規軍はこれに対して反乱をおこしたり、貴族などに認められていた抵抗権を行使し、コンフェデラツィア(konfederacja, 連盟)と呼ばれるものを招集して団結し王に対抗した。 この時に軍人たちが結成した「konfederacja rohaczewska」は、ポーランド・リトアニア共和国史上でも最も大きく、かつ最も堕落したコンフェデラツィアで、1612年から自国領内を略奪して回り、1614年5月17日のロハティン (Rohatyn) の戦いで最も反抗的な一派が敗北を喫するまで暴れまわった。コンフェデラツィアの残ったメンバーたちは国から給料を受け取り抵抗をおさめ、主導者だったヤン・カルヴァツキ (Jan Karwacki) はスタニスワフ・コニェツポルスキ (Stanisław Koniecpolski) に捕らえられ鎖で繋がれて、コニェツポルスキの師であったジュウキェフスキのもとに送られ、リヴィウで処刑された。さらに、ジグムント3世はオスマン帝国からも、ポーランド領ウクライナのウクライナ・コサックがオスマン領への侵入を行ったとして抗議された。これによりポーランド・リトアニア共和国が対ロシア戦でオスマン帝国からの支援を受ける望みも失われた。 ロシアも、大動乱が治まったとは言い難い状態が続き、ポーランド・リトアニア共和国の弱い時期につけこんだ攻撃をする力はなかった。1613年2月21日、貴族・聖職者・庶民が構成する身分制議会ゼムスキー・ソボルは、17歳になったミハイル・ロマノフを新たなツァーリに選出した。その父で、かつて有力なボヤーレであり大動乱の最中にも権力争いに参加したフョードル(当時はフィラレート)は1619年、ゲルモゲン死後に空位となっていたモスクワ総主教に就任した。ロマノフ家は有力なボヤーレであり、イヴァン4世の妻アナスタシア・ロマノヴナはミハイルの祖母の姉妹だった。 こうした有力な背景はあったが新ツァーリのミハイルには反対勢力も多かった。マリナ・ムニシュフヴナはなおも息子イヴァンをツァーリの地位につけようと動き、南東部のコサックの支持を得るために動いていた(1614年に拠点のアストラハンから追い出され、後に捕まり獄死した)。有力なボヤーレは権力争いに奔走し、ミハイルをツァーリの地位から引き下ろそうと画策した。北西部のノヴゴロドを占領するスウェーデンも武力介入(イングリア戦争)を続けており、ノヴゴロドでツァーリに選出されたカール・フィリップ公を名目だけでなく実質的なツァーリにしようと動いたが、ポーランド王子ヴワディスワフほどの支持も得られず、1617年にストルボヴァの和約を結び、ノヴゴロドを放棄する代わりにイングリアなどを割譲させて大動乱から手を引いた。 両国とも内乱が続く間、小さな武装勢力も盛んに活動していた。ポーランドの傭兵集団リソフチツィは1612年時点ではスモレンスクの守備を行い、正規軍が連盟を組んで反乱を行っていた間はロシアの侵入からポーランドを守っていた。しかし1615年、指導者のアレクサンデル・リソフスキはならず者たちを集めて六つの部隊を編成しロシアに侵入した。彼はブリャンスクを攻囲し、ユーリ・シャホフスコイ公の率いる救援軍をカラチェフ付近で破った。彼はドミトリー・ポジャルスキー率いる大軍の前衛を何度も破ったが、ポジャルスキーは攻撃のかわりに防御に移り、陣を固めた。 リソフスキはベリョフ、リフビン(現在のチェカリン)を焼き、ペレミシリを落とし、北へ転じてルジェフでロシア軍を破り、さらに北のカシンへ進んでトルジョークを焼き、ロシア軍による攻撃を受けないまま大量の略奪品を持ってポーランドに帰った。リソフスキと彼の軍は1616年秋までロシア国境に残っていた。リソフスキは同年10月11日に突然病没したが、彼の軍リソフチツィはなおもロシアにとって脅威であった。1616年にはクルスクを奪い、ロシア軍をボルホフで破っている。
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休戦
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「アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965年-1966年)」の記事における「休戦」の解説
戦闘は8月31日まで続いたが、この日に休戦が宣言された。警察と平和維持活動はブラジル軍に引き渡されたので、アメリカ軍の大半はそれから間もなく引き上げたが、その作戦本部と第82空挺師団第1旅団は残り、1966年8月まで駐屯していた。この旅団の1個大隊が引き上げたのは1966年9月だった。 特にサンティアゴ・デ・ロス・カバリェロスにあるホテル・マトゥムへの攻撃など、打ち続く不穏と攻撃に直面していたカーマニョは、アメリカ合衆国政府に突き付けられた調停案に合意した。ドミニカ暫定大統領ガルシア・ゴドイがカーマニョ大佐をイギリスへのドミニカ大使付武官として派遣した。 1966年、元大統領ホアキン・バラゲールが、大統領選挙でフアン・ボッシュを破って当選した。これにはジョンソン政権からの公然の支援があった。ボッシュが権力に返り咲くことは無かった。バラゲールは当初から抑圧的だが高度に政治的に巧みな統治を行って、比較的安定した時代となり、その政権は22年間続くことになった。
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休戦
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しかし、メキシコ都市部の市民がこの反乱に注目すると、メディアや大規模な街頭行動を通じて、交戦双方への休戦を呼びかけた。これを受けて政府側は停戦を宣言し、サパティスタ側も対話路線に転換を図った。
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休戦
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531年のカリニクムの戦いの直後にユスティニアヌス1世の特使であるヘルモゲネス(英語版)がカワード1世の下を訪れ、停戦の交渉を開始したものの合意は得られなかった。ユスティニアヌス1世は自国の立場を強化するための措置を講じ、同時にカワード1世に対して外交戦を展開した。ユスティニアヌス1世はサーサーン朝に対抗してエチオピアのアクスム王国とイエメンのヒムヤル王国との同盟関係の構築を試みたものの、同盟の提案は失敗に終わった。同年、ペルシア軍はマルティロポリス(現在のシルヴァン(英語版))を包囲した(マルティロポリス包囲戦(英語版))。しかし包囲後間もなくカワード1世が死去したために包囲を断念し、532年の春に東ローマ帝国の使節と新しいサーサーン朝の王であるホスロー1世(在位:531年 - 579年)との間で新たな交渉を開始した。ユスティニアヌス1世はペルシアとの戦争を追求するよりも、おそらくすでにローマ帝国の失われた西半分を領土を回復することにより焦点を当てていた。一方、即位後間もないホスロー1世にとっては戦争を継続するよりも自らの地位を固めることに専念する必要があった。最終的に双方は合意に達し、永久平和条約(英語版)が532年9月に締結された(休戦状態は8年弱の間継続した)。両国はすべての占領地を返還し、東ローマ帝国がサーサーン朝に対し110センテナリア(11,000ポンド、約5,000キログラム)の金を一括払いすることで合意した。東ローマ帝国はラジカの要塞を取り戻し、イベリアはサーサーン朝の支配下に留まったものの、国を離れていたイベリア人は、東ローマ帝国の領土に留まるかイベリアへ戻ることを認められた。
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休戦
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クリスマス休戦は主にフランドル地方に展開する英独軍の間で生じた。公的な停戦ではなかったため、クリスマス休戦は様々な形で始まった。例えば、ある地域に展開していたイギリス軍将校アルフレッド・デューガン・チャター(Alfred Dougan Chater)によれば、クリスマスの日の朝10時頃、塹壕の胸壁越しにドイツ兵が手を振るのが見えたという。それから次々と兵士たちが塹壕から這い出ていき、自然と停戦状態が生じたのである。 フランス北部で戦っていたイギリス軍将校チャールズ・ブレーワー(Charles Brewer)は、クリスマスイブの夜にドイツ軍の塹壕の中で何かが光るのを目にした。ゆっくりと頭を上げてみると、輝いていたのは飾られたクリスマスツリーであり、さらにドイツ語で『きよしこの夜』を歌うのも聞こえてきた。これを聞いたイギリス兵たちも、英語で『きよしこの夜』を歌った。そして夜が明けると、両軍の兵士がそれぞれ塹壕を出て、停戦状態が生じたのだという。 英独の将兵らはクリスマス休戦の最中、両軍の戦死者の遺体を回収し合同埋葬式を行ったほか、酒類、タバコ、チョコレートといった品物やサインの交換、記念写真の撮影などでクリスマスを祝った。いくつかの地域では、鉄条網と砲弾穴に囲まれた塹壕間の無人地帯でサッカーの試合が行われた。まともなボールがなかった場合、空き缶や小さい土嚢が代わりに使われた。 停戦の発端は、多くの場合ドイツ側だったという。これは当時ドイツ軍が優勢で将兵らに精神的な余裕があったことに加え、戦前イギリスで働いていて英語を話せる者が多かったためである。 ほとんどの地域において日没と共に停戦状態は終結したが、一部では元旦まで戦闘状態が停止していた。 一方、クリスマス休戦を快く思わない者も少なからずいた。それは例えば、戦友を殺した敵を許せない将兵や、戦意の低下を危惧する高官らである。当時上等兵として従軍していたアドルフ・ヒトラーは、クリスマスを祝おうとする仲間たちを「戦時中にこのようなことをするべきではない」と叱りつけたという。停戦が生じず戦闘状態が継続した地域もあり、クリスマスを祝おうと塹壕を出て殺害された兵士も多数いる。また、1914年末の時点でイギリス海外派遣軍(BEF)は連合国軍の主力ではなく、クリスマス休戦が生じた地域は西部戦線全体から見ればごく一部であった。連合国軍の主力であり、なおかつ国土が戦場と化していたフランス、そして国土が占領下に置かれているベルギーの兵士の多くは、ドイツ軍とクリスマスを祝おうとしなかった。 その後、BEF司令官ジョン・フレンチ将軍は、このような非公式の停戦を今後認めない旨を厳命した。ドイツ帝国陸軍参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン将軍もクリスマス休戦を受け、「持ち場を離れ敵陣に向かおうとした者は撃て」という旨の命令を発している。1915年以降のクリスマスにこうした停戦が生じることはなく、1918年の休戦まで戦闘状態が継続することになる。
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休戦
「休戦」の例文・使い方・用例・文例
- 双方とも休戦したがっている
- 彼らは休戦条件で合意した。
- 新任の大使は休戦を推し進めて、これ以上の殺りくを終わらせるでしょう。
- 休戦.
- 休戦を布告する.
- 休戦, 停戦.
- 休戦が破られて再び戦闘になった.
- 平和[休戦]が布告された.
- (…と)協定[契約, 休戦協定]を取り決める.
- 支払いを停止する[休戦する].
- 休戦する.
- 休戦の白旗.
- 行動を停止する(休戦する)
- 敵は談判中休戦を請うた
- 敵と休戦を約す
- 休戦条約
- 休戦旗
- 軍隊によって沈黙を守る活動(特に国際的軍隊が敵対する集団または国家間で休戦を実施するとき)
- 降伏や休戦を求めるために掲げられる白い布
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(闘争) | 決戦 戦捷 敗戦 一戦 休戦 |
名詞およびサ変動詞(休む) | 休講 夢寐 休戦 休作 長欠 |
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