休戦および結末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 21:38 UTC 版)
「アメリカ独立戦争におけるフランス」の記事における「休戦および結末」の解説
ヨークタウンの包囲戦が始まってから、大陸軍のベンジャミン・リンカーン将軍はイギリス軍との秘密の交渉についてフランス軍に教えたことがなかった。交渉は直接ロンドンとワシントンの間で進められた。イギリスは13植民地に対する支配を諦め、五大湖から南とミシシッピー川から東の領土の領有を認めた。しかし、フランスは、アメリカとイギリスの間の和平交渉に加わらなかったので、フランスとアメリカの間の同盟関係が崩れた。このためにその後の和平協定の交渉でフランスとスペインの影響力が薄れた。 1783年9月、パリ条約で条件付き勝利が宣言された。フランスはアメリカ、アフリカおよびインドにおける領地を回復した。1763年パリ条約と1713年ユトレヒト条約で失った領土のうち、トバゴ島、セントルシア、セネガル川領域、ダンケルクを回復し、テラ・ノヴァの漁業権が増加した。スペインはフロリダとメノルカを回復したが、ジブラルタルはイギリスの手に残った。 フランスの戦争への介入は遠距離でかつ海軍を使ったものになったので、10億リーブル以上の戦費が使われた。フランスの国家財政は悲惨な状態となり、一方でジャック・ネッケルが税率を上げずに負債を払うために借金を重ねたため、著しく景気も後退していた。国家財政担当官のカロンヌは、赤字の解消のために貴族や聖職者の財産に税金をかけることを試みたが、解職され追放されるという憂き目にあった。フランスの財政を健全化するために必要な改革は、政情不安のゆえに弱められた。戦争中の貿易は著しく減っていたが、1783年には回復していた。戦争はフランスの権威と誇りにとって極めて重要であり、ヨーロッパの主導者としての役割を復権させた。しかし、フランスは多額の軍事費を使ったにも拘わらず、アメリカの主要貿易相手国とはならなかった。フランスの軍隊は遠距離遠征を行い10億リーブル以上を使ったために、フランスの負債33億1500万リーブルに追加されることになった。 フランス参戦のもう一つの結果といえば、啓蒙主義の誇りを新たに得たことである。これは1776年アメリカ独立宣言、1783年アメリカの勝利、さらに1787年アメリカ合衆国憲法の公布で印象づけられ、自由主義の特権階級は満足した。しかし、他にも大きな影響があった。ヨーロッパの保守主義が神経質になり、貴族階級はその地位の保全のために対策を打ち始めた。1781年5月22日のセギュール条例では、軍隊の上級士官に一般人が昇進することを制限し、貴族のために留保した。ブルジョワジーの挫折が始まった。
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