休戦への動き
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「休戦への動き」の解説
刻一刻と戦局の悪化が続き、形勢不利が明らかになったことでイタリア王国内の休戦計画は支持を広げていった。これまで戦時政権を支えてきたファシスト党や王党派の間からも反独派・親米英派を中心に休戦を求める動きが広がり、元より開戦反対論が主流であった軍部でも賛同する将官達が現れ、単独講和が現実味を帯び始めた。ムッソリーニも敗戦や休戦計画といった結末は避けられないと感じてか、或いは患いつつあった胃の病の影響で若い時程の覇気を持たなくなった。東部戦線の破局はバルカン半島に集中していた枢軸陣営の小国に著しい恐怖を与え、彼らは連合国やソ連との分離講和や枢軸国からの離脱を試み始めていた。その一国であったブルガリア王国のボグダン・フィロフ首相はローマを訪れ、イタリアもドイツと手を切ってソ連と分離講和すべきだとムッソリーニへ勧めている。 1943年4月7日、クレスハイムで開かれた独伊首脳会談でヒトラーに対しソヴィエト連邦と講和してイギリスとアメリカとの戦いに集中する様に働きかけたが、同意は得られなかった。ムッソリーニは当初から対英戦を棚上げした二正面作戦が最大の過ちであり、(第一次世界大戦のドイツ帝国の様に)外交的に東部戦線に決着を付けて一つの戦線に集中すべきだと思っていた。しかしスラブ人の覆滅こそ最終目標と考えているヒトラーはソ連との講和を拒絶し続けた。ソヴィエトへの勝利に妄執するヒトラーを説得するのは誰であっても不可能だった。同年7月10日、勢い付いた連合軍が地中海を経由してイタリア本土の南端であるシチリア島へ侵攻すると(ハスキー作戦)、もはやファシスト政権の敗戦は免れない情勢となった。 元より乏しい軍備を使い果たしていたイタリア陸軍は連合軍の上陸にためす術もなく、アルフレド・グッツォーニ(英語版)指揮下の伊第6軍(兵員23万名)は米第7軍・英第8軍(兵員46万7000名)に敗北し、独第15装甲師団とヘルマン・ゲーリング空軍装甲師団の支援を受けてメッシーナ海峡へ撤退した。同時期に首都ローマへの大規模な空襲(ローマ大空襲(イタリア語版))も行われ、敗戦を前に政府や軍の休戦派は連合軍との秘密交渉を開始していた。そうした中でフェルトレにおいて急遽行われた13度目の独伊首脳会談ではヒトラーがイタリアの政府と国軍に対して初めて激烈な怒りを見せた。イタリアに対するヒトラーの批判においてムッソリーニ個人は常に擁護されていたが、それでも戦局に対する激しい口調は礼を失した姿勢であった。しかもヒトラーの意見は具体性を欠いており、議論というよりも演説であった。実際、ムッソリーニの継戦意欲を鼓舞することを意図していたと思われるが、ムッソリーニからすれば疲労感を覚えるだけであった。 ムッソリーニとヒトラーとの信頼関係が崩れたと見て、会談の途中でジュゼッペ・カステラーノ(英語版)参謀次長が連合軍との単独講和案を密かに話し、この場で独伊同盟の解消を宣言すべきだと提案した。カステラーノら軍の休戦派はローマ周辺に新設の3個機械化師団を展開しており、連合軍の北進と呼応する準備も整えていたが、ムッソリーニは単独講和案を却下した。会談の後半、冷静さを取り戻したヒトラーも独伊友好を再確認し、ムッソリーニと今後の戦争協力について話し合い、イタリア本土での枢軸軍による共同戦線構築についての計画を練った。イタリア陸軍の戦車不足を補うべくドイツ国防軍が使用している三号戦車・四号戦車の提供も取り決められ、ドイツ式の装甲師団である第1義勇装甲師団『M(ムッソリーニ)』(イタリア語版)が編成された。当初、この装甲師団は国防義勇軍を通じて党の指揮下に置かれていたが、統合参謀本部の強い反対で陸軍指揮下に移管されている。 軍部を中心とした休戦派にとってムッソリーニの継戦意思が明らかとなったフェルトレ会談は現政権での休戦を断念し、講和の前提条件としてのクーデターに踏み切る直接的動機となっていたのである。
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