休戦交渉と皇帝退位問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 14:18 UTC 版)
「ドイツ革命」の記事における「休戦交渉と皇帝退位問題」の解説
ドイツ参謀本部が戦争の短期終結を目指して立案したシュリーフェン・プランは、フランス軍との戦線全域に渡って泥沼の塹壕戦に陥ったことで挫折した。国内で独裁的地位を固めた軍部は、この膠着状態を破り、継戦能力を維持するために、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制、エーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長の提唱した、いわゆる「総力戦」体制の確立に突き進んだ。これは一方では、戦争による経済活動の停滞と相まって、国民に多大な窮乏と辛苦を強いることとなり、戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発した。 第1次世界大戦中、ドイツの食糧事情は悪いことが多く、特に1916年から1917年にかけての冬はそれが深刻だった。社会の下層階級ではじゃがいもではなくかぶらが主食になる有様で、そのため「かぶらの冬」と呼ばれた。この時期の配給された食料は、必要カロリー数の半分から3分の1にしか達しないという悲惨さだった。当然のこととして、デモ・暴動・ストライキ・職場放棄が大規模に発生した。また、第1次大戦期間中のドイツの慢性的な食糧不足は、社会的弱者を直撃した。あまり注目されることはないため言及されることは少ないが、この当時、ドイツでは公立病院において精神病患者が約7万人餓死している。この7万人という数字は、1939年以降に実施されたナチス・ドイツにおける強制安楽死計画 (T4作戦) での死者数のうちの精神病患者の殺害者数にほぼ匹敵するが、ほとんど顧らていない。 1917年3月12日に勃発したロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、1918年1月には全国規模の大衆的なストライキが行われた。また一時ドイツと連合国の仲介役に当たっていたアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」に代表される公正な講和のアピールは、政治家にも和平への道を選択させることとなった。 ドイツ国内では反戦運動も活発化した。国内では1918年初頭から反戦運動や労働者による反戦ストライキが激化、参加者は全国で100万人以上にも上った。国軍や政府は反戦ストライキに対して強硬姿勢で臨み、指導者の逮捕、ストライキ参加者の大量徴兵、工場の軍管理化、戒厳状態の強化などを実施し、反戦派は大打撃を受けた。同時に、政府は強硬姿勢以外に採り得る選択肢がなくなり、西部戦線での勝利後有利な条件での講和を目指す以外なくなった。 1918年3月21日、ドイツ軍は76個師団、砲6600門、飛行機1000機という大部隊を使って西部戦線で大攻勢を始めた。5月にはマルヌ川を越え、一時はパリ目前まで迫ったがドイツ軍の損害も大きく、連合国が補給を十分にできた一方、ドイツ軍は補給が間に合わず次第に劣勢になっていった。 政府のキュールマン(英語版)外相は、軍事的解決だけでは戦争終結は無理であり、外交交渉も必要であると議会で力説したが、陸軍最高司令部 (OHL) や保守派の面々は一時的な軍事的戦果に幻惑され、キュールマンを辞任に追い込み、更に西部戦線の大攻勢は7月まで続けられた。7月末から連合軍の反撃が始まり、8月8日の戦闘ではドイツ兵の5万人以上が捕虜になる大敗北を喫した。ルーデンドルフに「ドイツ陸軍の暗黒の木曜日」と言わしめるほどの大敗北で、以後ドイツ軍の退却、大量の捕虜・兵士の投降が常態化した。厭戦による士気の低下も深刻で、補充部隊が前線行きを拒否して暴動を起こしたり、休暇の後、部隊に戻らなかったり、兵役逃れをする兵士が続出、戦争末期にはこういった兵士が100万人近くにのぼった。また、ドイツ国内でも食糧不足が深刻化したままだった。 しかし、このような明らかな劣勢の中にあってもなおルーデンドルフは強気で、政府に対して軍事情勢を正しく伝えず、勝利の一撃ののちの和平交渉を主張して譲らなかった。OHLは戦局の悪化を正しく政府に伝えなかったので、いきおい政府における講和派の活動は停滞気味にならずを得ず、本格的に講和へ突き進むというもむしろ、単純に国内改革や政府批判のレベルにとどまっていた。 その状況も9月になって一変する。9月28日、ルーデンドルフは突如として、現政府の更迭と議会多数派による新政権の樹立、ウィルソンの14か条に基づく講和の実現をせまった。背景には、ドイツの敗北が決定的となったことで、9月14日に同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国が講和交渉を用意していると発表したことや、同じく同盟国のブルガリアも同月25日に連合国に対して休戦を申し出たなど、同盟関係が崩壊したことにあった。 9月29日の御前会議で、ルーデンドルフの提案が承認され、首相のゲオルク・フォン・ヘルトリングも辞任に同意、後任に自由主義者と言われていたバーデン辺境伯マックス・フォン・バーデン大公子が宰相にあてられることになった。当初は消極的だった社会民主党(SPD)もエーベルトの説得で政府への参加に同意したことで、議会多数派3党(ドイツ社会民主党・中央党・ドイツ民主党[要出典])による政府が作られる見通しになった。OHL代表はようやく10月2日になって初めて、ドイツの本当の戦局を各党の代表に伝えた。これまでOHLは正しい戦況を議会に告げていなかったので、ドイツの敗戦という予期せぬ状況の中で新政府は講和と国内改革を実行しなればならない羽目に陥った。 10月3日、マックスを首班とする三党政府が成立し、戦時中の軍部独裁が終わった。OHLは、マックスの反対を押し切って、政府の成立後ただちにウィルソン大統領への交渉依頼の通牒を発した。しかし、ドイツ政府の停戦交渉は、敗戦を予期していなかったドイツ国民との溝を深めた。 マックス宰相は連合国との講和交渉を開始し、10月23日にアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは十四カ条の平和原則に基づく講和の条件として、ドイツ帝国における軍国主義と王朝的専制主義の除去を要求した。独立社会民主党らは皇帝ヴィルヘルム2世の退位を要求し、講和運動が広範囲に行われるようになった。これに反発したルーデンドルフが交渉継続に反対して戦争継続を主張するという事態が起きたが、マックス大公子は皇帝ヴィルヘルム2世に迫ってルーデンドルフを解任、後任にヴィルヘルム・グレーナーが就任した。 その後憲法改正による議院内閣制や普通選挙などの導入が行われたが、アメリカ側が皇帝の退位を求めているという情報がチューリヒ在住のアメリカ領事からもたらされた。ウィルソン自身は皇帝の退位を求めたことはなく、また想定もしていなかったが、10月25日頃からは皇帝の退位問題が講和の前提として公然に語られるようになった。この情勢の動きを見てマックス大公子の政府も皇帝退位の方針を固めつつあったが、ヴィルヘルム2世とその周辺はあくまで退位に反対した。10月29日に皇帝は不穏なベルリンを離れて大本営のあるスパに向かい、後を追ってきたマックス大公子の退位要請も拒絶した。
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