休戦協定の調印
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 10:12 UTC 版)
「ナチス・ドイツのフランス侵攻」の記事における「休戦協定の調印」の解説
イギリス軍将兵と一部のフランス軍将兵はイギリスへ脱出したものの、これは戦車・火砲など重機材を放棄しての脱出だった。その後のフランスは、残存部隊やマジノ要塞から引き抜いた歩兵主体の部隊で防衛するしかなかった。イギリス軍は歩兵2個師団を再び派遣しているが、のちにエアリアル作戦で撤退した。 ダンケルク包囲戦が終わりドイツ軍が進撃を再開すると、フランス政府は6月10日にパリを無防備都市と宣言して放棄、政府をボルドーに移した。同日、イタリアが英仏に対し宣戦を布告。 6月14日にはドイツ軍がパリに無血入城した。 6月16日、ポール・レノーが辞職し、休戦派のフィリップ・ペタンが首相となり、フランス政府はドイツに休戦を申し込んだ。 6月22日、第一次世界大戦におけるドイツの休戦協定が締結されたコンピエーニュの森で同じく調印作業に使われた食堂車の中で、ドイツ代表とフランス代表は休戦協定に調印した(独仏休戦協定)。 6月25日0時35分、停戦が発効した。
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