休戦協定後の封鎖
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封鎖は1918年11月の休戦協定の締結後も翌年の1919年に入っても維持され、その期間は8か月に渡った。「ケンブリッジ近代史 (New Cambridge Modern History)」の記述によると、ドイツの食糧輸入は休戦協定の締結以後、1919年6月のヴェルサイユ条約にドイツが調印するまでの間、連合国によって管理されていたとされる。全ての封鎖は1919年1月17日、連合国がその監督の下に食糧輸入を許可した時に解除された。しかしながら、食糧の配分は1919年3月8日、ドイツ政府が連合国によって課された制約を容認していた時まで遅配ぎみであった。最終的に、封鎖はドイツがベルサイユ条約に調印した後の1919年7月12日に解かれた。ドイツ人民にとって、「封鎖に続く何週間、何か月もの期間において、ドイツ国内の悲惨な状態は更に悪化した」ために、これらの出来事は最も衝撃的な月日であったとされている。 76万3,000人の餓死者という公式数値は、1919年のドイツ封鎖の期間における民間人死亡者には含められていない。最近のある学術研究によると、1918年11月の休戦協定直後の時期における死亡者に関する統計データは存在していないと主張されている。ドイツ人医師であるマックス・ルブナーは1919年4月に出した論説において、休戦協定後のドイツ封鎖の継続によって10万人のドイツ市民が亡くなったと主張した。イギリスでは労働党所属の議員であり反戦活動家でもあるロバート・スマイリー(英語版)が1919年6月にある声明を発表した。その声明では、封鎖の継続によって10万人のドイツ市民が亡くなったことを非難した。
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