休戦期(102-105年)
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「ダキア戦争」の記事における「休戦期(102-105年)」の解説
いったんダキアと停戦したものの、トラヤヌスはダキアを将来的には征服すべき相手と見ており、ダマスカスのアポロドーロスに設計させた現在もドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンに残る橋(トラヤヌス橋、当時ローマで最大の橋であった)は来るべき戦争に備えて設けたものであった。また、デケバルスもいったんは休戦協定に応じ、(ダキア人より)北方・東方のゲルマン人への対処のためにローマから軍事・技術面での支援を受けたが、その支援の多くはダキア自身のために使われた。 降伏後しばらくはデケバルスもローマに対し従順であったものの、やがてダキア諸部族を率いて兵を挙げ、ドナウ川流域のローマ属州を次々に襲撃し、略奪を繰り返した。
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休戦期
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1593年、これまでの功績を認められた李舜臣は三道水軍統制使という朝鮮南部(慶尚道・全羅道・忠清道)の水軍を統べる指揮官に出世した。元均は、今まで部下であった李舜臣の命令を受ける立場になったことが不満で、露骨な悪意をしめすことが多々あり、朝廷に赴任地を変えてもらうように願い出た。李舜臣と元均はお互いに讒言を行うなど不和が深刻になり、朝鮮王朝は元均を陸上部隊へ転属させた。李舜臣は彼の日記の中で、「天地の間に、元均ほど凶悪で常軌を逸した人はいない」と述べている。 李舜臣は休戦交渉期の1594年3月に水軍で巨済島を攻撃(第二次唐項浦海戦)したが、日本軍は海では応戦せず、砲台などを構築した。開戦後に戦争を主導する立場となっていた明より、和平交渉の妨害となるとして交戦を禁じられた。また、同年9月から10月には、水陸共同で巨済島の攻略を試みたが、日本側は堅く陣を守り、朝鮮軍の攻勢を退けた(場門浦・永登浦海戦)。李朝の尹鑴が書いた白湖全書によると、朝鮮王朝内では膠着状態の間に対立があり、李舜臣が海戦での勝利に焦っているとの批判が強まって、元均などの反李舜臣勢力のデマなど中傷が効果を発揮して、朝廷は体察使(監査)の李元翼を送って、李舜臣の査問が行われた。李舜臣は留任となったが、精神的に疲弊した。一方で日本側も朝鮮水軍の襲撃により巨済島に兵糧が届かず、このことを懸念する旨を島津義弘が書状に記している。 この後も戦線は膠着したが、1597年、慶長の役の攻勢準備のために加藤清正が朝鮮へ着到することを小西行長の使者が朝鮮側に漏らしたことから、朝鮮王朝は加藤清正の上陸を狙って攻撃するように朝鮮水軍に命令した。しかし李舜臣は偽情報だと疑った上に、天候と風向きが航海に不向きだったこともあって独断で攻撃を実施せず、加藤清正の上陸に抵抗しなかった。その後、2月に李舜臣は釜山浦を攻撃したが多数の死者を出して撤退した。朝廷では、日本軍の上陸を妨害しなかったことを抗命として咎める声が大半となり、李舜臣は更迭され、拷問を受けて一旦は死罪を宣告されたが、鄭琢の取りなしで助命され、再び一兵卒として白衣従軍を命じられた。
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