『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍の意味・解説 

『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍(1621年 - 1630年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/31 09:16 UTC 版)

ピーテル・パウル・ルーベンス」の記事における「『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍(1621年 - 1630年)」の解説

マリー・ド・メディシスの生涯」も参照 1621年フランス王太后マリー・ド・メディシスが、パリリュクサンブール宮殿装飾用に、自身生涯と前フランス王1610年死去したアンリ4世生涯とを記念する連作絵画2組制作ルーベンス依頼した。この依頼ルーベンス描いたのが、現在ルーヴル美術館所蔵する24点絵画からなる『マリー・ド・メディシスの生涯』で、1組目の連作完成したのは1625年のことだった。ルーベンスはもう一組連作制作開始していたが、こちらは最終的に未完のままに終わっている。1630年マリー・ド・メディシスは、息子フランス王ルイ13世によって追放され幼少期ルーベンス暮らしていたケルン邸宅1642年死去した1621年ネーデルラントスペインとの12年間の休戦期が終わると、スペイン・ハプスブルク家君主たちはルーベンス外交的任務重用し始めた1624年フランス大使ブリュッセルから送った書簡には「スペイン王女(イサベル・クララ・エウヘニアを指す)の命によって、ルーベンスポーランド王子の肖像画描き来ている」と記されている。この書簡書かれているポーランド王ヴワディスワフ4世が、イサベル私的な賓客としてブリュッセル訪れたのは1624年9月2日のことだった。 1627年から1630年にかけての期間が、ルーベンス外交的活動がもっと激しかった時期である。ルーベンススペインネーデルラントに平和をもたらすために、スペインイングランド王宮何度も往復した。さらに、ルーベンス画家外交官両方役割担ってネーデルラント北部何度訪れており、各地宮廷賓客として遇されている。ルーベンス爵位与えられたのもこの時期で、1624年スペイン王フェリペ4世から、1630年イングランド王チャールズ1世から、それぞれナイト爵授かったまた、1629年にはケンブリッジ大学から美術修士号 (en:Master of Arts (Oxford, Cambridge and Dublin)) を授与されている。 ルーベンス1628年から1629年にかけての8カ月マドリード滞在し外交官としての職務だけでなく、スペイン王フェリペ4世らの依頼に応じて重要な絵画作品制作したイタリア時代にも目にしていた、スペイン王宮所蔵していたティツィアーノ作品改め触れ、『アダムとイヴ』など、ティツィアーノ作品模写多く描いている。また、ルーベンスは、フェリペ4世の宮廷画家としてマドリード王宮にいたディエゴ・ベラスケス親交持ち翌年二人でイタリアへ旅行する計画立てたしかしながらルーベンスアントウェルペン帰還することを余儀なくされ、結局ベラスケス一人イタリア訪れている。 マドリードからアントウェルペン戻ったルーベンスだったが、すぐに別の任務与えられイングランドへと赴き、1630年4月までロンドン滞在した。このロンドン滞在中に描いた重要な作品が『平和と戦争の寓意』(1629年ナショナル・ギャラリー(ロンドン))である。平和を希求するルーベンスの強い思い描かれたこの作品は、イングランド王チャールズ1世贈られた。 諸国収集家貴族階級間でのルーベンス国際的な名声はますます高くなっていったが、ルーベンスとその工房では、アントウェルペン後援者からの絵画注文もこなし続けていた。このような作品として、聖母マリア大聖堂の『聖母被昇天』(1625年 - 1626年)などを好例として挙げることができる。 『フランス王太后マリー・ド・メディシス』(1622年プラド美術館マドリード) 『シュザンヌ・フールマン』(1622年 - 1625年ナショナル・ギャラリー(ロンドン)ポーランド王ヴワディスワフ4世』(1624年ヴァヴェル城クラクフ) 『聖母被昇天』(1625年 - 1626年聖母マリア大聖堂アントウェルペン) 『平和と戦争の寓意』(1629年ナショナル・ギャラリー(ロンドン)

※この「『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍(1621年 - 1630年)」の解説は、「ピーテル・パウル・ルーベンス」の解説の一部です。
「『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍(1621年 - 1630年)」を含む「ピーテル・パウル・ルーベンス」の記事については、「ピーテル・パウル・ルーベンス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍」の関連用語

『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『マリー・ド・メディシスの生涯』と外交官としての活躍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのピーテル・パウル・ルーベンス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS