『マリー・ド・メディシスの生涯』
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「マリー・ド・メディシスの生涯」の記事における「『マリー・ド・メディシスの生涯』」の解説
『マリー・ド・メディシスの生涯』は、マリーの公宮だったリュクサンブール宮殿の待合室の壁に、マリーの生涯の時系列順に時計回りで飾られていた。現在『マリー・ド・メディシスの生涯』を所蔵しているパリのルーヴル美術館でも、同じく時系列順で展示されており、描かれている時期としてはマリーの幼年時代、フランス王妃時代、アンリ4世と死別後の摂政時代に大別できる。すべての絵画の縦寸は同じだが、横寸は飾られていたリュクサンブール宮殿の部屋の形に合わせてさまざまである。24点の絵画のうち16点が、高さ4メートル、横3メートルの壁に飾られており、3点の大きな絵画が高さ4メートル、横7メートルの壁に飾られていた。 『マリー・ド・メディシスの生涯』が飾られていたリュクサンブール宮殿の待合室の出入り口は、南東の角に設けられていた。この出入り口から見ると『サン=ドニの戴冠』と『アンリ4世の神格化と摂政就任宣言』がもっとも目立つ位置に掛けられていた。出入り口が切られた壁にはマリーの幼少時代を描いた絵画と、マリーとアンリ4世の結婚を描いた絵画が掛けられていた。4点もの絵画が2人の結婚を題材として描かれているが、アンリ4世と結婚したときのマリーが27歳という「高齢」であり、当時の女性の初婚年齢としては極めて珍しかったからだともいわれている。24点の連作のうち、前半の作品は北と西の壁に掛けられており、マリーの戴冠で終わる。出入り口の向かい側の壁には、後半の作品となるアンリ4世の暗殺と政権の引継の絵画や、未亡人となったマリーの摂政宣言の絵画が掛けられていた。連作後半の作品はマリーがフランスの統治権を掌握して、物議を醸した時期の絵画から始まっている。マリーとその息子でフランス王位を継いだルイ13世との衝突と和解などが、マリーからの要望で連作後半の主題として描かれたのである。歴史的観点からすると、当時のフランス政局下で、このような主題の絵画を描くことは大きな混乱を巻き起こす可能性があった。ルーベンスにとっても、フランス宮廷人たちからの怒りを買うようなことはまったく本意ではなかった。そこでルーベンスは『マリー・ド・メディシスの生涯』の連作後半を、古代神話の世界に仮託して描くことにした。神話画に描かれる悪徳や美徳を意味する寓意や象徴、あるいは宗教的な比喩を多用することにより、現実世界で生じた事件を曖昧に表現して隠そうとしたのである。「歴史的真実」に対するこのようなルーベンスの姿勢は、恣意的で誤っており、不誠実だととられる可能性もある。しかしながら現代的意義からすると、歴史家もジャーナリストも『マリー・ド・メディシスの生涯』は歴史的事実の描写ではなく、歴史的な出来事を詩的世界に変容した美術作品であると見なしている。 ルーベンスが『マリー・ド・メディシスの生涯』で採用した物語的表現手法の源流は、古代ローマ・ギリシア時代に書かれた、理想的王権や優れた政体への「称賛文 (en:Panegyric)」にある。このような称賛文は、世継ぎの王子の誕生などといった政治的にも重要な出来事に際して書かれることが多く、為政者の権威を高め、その血統を称える目的に使用された。称賛文の正式な構成は称賛の対象である人物の祖先から始まり、生誕、教育、そして独り立ちしてからの生活と、その生涯を時系列順に詳細に解説していく流れになっている。ルーベンスが『マリー・ド・メディシスの生涯』で採用した構成は、これら古代の称賛文を絵画として再現したものなのである。 『マリー・ド・メディシスの生涯』の価格はおよそ24,000ギルダーだった。その総表面積は292平方メートルであるため、1平方メートル当たり約82ギルダー(約1,512ドル)になる。
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