制作依頼の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:04 UTC 版)
「マリー・ド・メディシスの生涯」の記事における「制作依頼の背景」の解説
マリー・ド・メディシスが「この極めて壮大な計画を思いつき」、ルーベンスに連作絵画を描かせた背景について多くの説が存在する。ジョン・クーリッジは、ルーベンスがデザインを担当し、その工房が手掛けていた有名な連作タペストリ『コンスタンティヌス大帝の生涯 (en:The History of Constantine)』(1622年)にマリーが対抗心を持ったのではないかとしている。同時期にルーベンスは、後に連作『マリー・ド・メディシスの生涯』に組み入れられる、最初の数点の絵画も描いていた。また、当時のルーベンスは、マリーの息子でアンリ4世の死後にフランス王位に就いたルイ13世(在位1610年 - 1643年)の依頼で、油彩の習作を多く描いていた。このこともマリーが1621年の終わりにルーベンスに『マリー・ド・メディシスの生涯』の制作を依頼したことに影響を与えた可能性があると考えられている。しかしながら、マリーが『マリー・ド・メディシスの生涯』を制作させたもっとも大きな理由は、自身の生涯を不朽なものとするためであり、この壮大な計画を実行できるだけの能力を持ったルーベンスに白羽の矢が立ったとする説も有力である。当時のルーベンスは極めて優れた画家として高く評価されており、諸国の有力諸侯たちとも親密な関係を築いていた。たとえばマリーの妹エレオノーラが結婚したマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガも、キャリア初期のルーベンスの才能を認めて自身の宮廷に迎えている。ルーベンスがマリーと交わした制作契約書は詳細なものではなく、マリーの生涯を何点の作品に描くのかが主な内容だった。これは未完に終わったマリーの夫アンリ4世の生涯を称える連作『アンリ4世の生涯』の制作契約書に比べると極めて内容の薄い契約書だった。契約書にはすべての人物像をルーベンス自ら描くこととされており、弟子は背景や細かな部分しか手掛けることができなかった。
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