マリー・ド・メディシスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 政治家 > 后妃 > フランスの王妃 > マリー・ド・メディシスの意味・解説 

マリー・ド・メディシス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 13:54 UTC 版)

マリー・ド・メディシス: Marie de Médicis, 1575年4月26日 - 1642年7月3日[1])は、フランス国王アンリ4世の2番目の王妃で、ルイ13世の母である。


  1. ^ Marie de Médicis queen of France Encyclopædia Britannica
  2. ^ 中野京子『名画で読み解く ブルボン王朝 12の物語』光文社、2010年、43頁。ISBN 978-4-334-03566-2 


「マリー・ド・メディシス」の続きの解説一覧

マリー・ド・メディシス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:04 UTC 版)

マリー・ド・メディシスの生涯」の記事における「マリー・ド・メディシス」の解説

マリー・ド・メディシスは、1600年10月5日フランス王アンリ4世二番目王妃となったマリーの父はトスカーナ大公フランチェスコ1世である。アンリ4世マリー結婚した理由として、マリー叔父にあたるフェルディナンド1世が、当時トスカーナ大公として大きな権力財産握っていたことも関係している。アンリ4世1610年死去しフランス王位を継いだのはマリーとの間に生まれたわずか8歳ルイ13世で、マリーは幼いルイ13世摂政役割を果たすようになっていった。しかしながらルイ13世1614年13歳になっても、マリー摂政としてフランス実権手放すことはなかった。そして1617年当時15歳だったルイ13世自身フランス治めることを決意しマリーブロワ城へと追放する至ったその後4年わたってマリールイ13世和解しようとはしなかったが、1621年マリーパリ帰還許された。パリ戻ったマリー建築リュクサンブール宮殿装飾熱中するようになり、ルーベンスマリーから膨大な美術品制作請け負うようになっていく。この頃ルーベンスマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ宮廷画家務めていた。マリールーベンス初め面識持ったのは、1600年フィレンツェ行われたマリーアンリ4世代理結婚式の場だった。1621年マリールーベンスに、リュクサンブール宮殿装飾用として、マリーアンリ4世描いた2点大きな肖像画制作依頼した。この2点が、マリー生涯寓意満ちた21点連作絵画として描き上げた最初作品だった。21点絵画完成したのは1624年終わりで、1625年5月1日行われたマリーの娘アンリエット・マリーイングランド王チャールズ1世との代理結婚式で、装飾として使用されている。マリーの夫アンリ4世生涯を描く連作結局未完終わり習作下絵が数点現存しているだけである(後述)。これは、マリー1631年ルイ13世フランスからの永久追放処分受けたことにも一因がある。マリーブリュッセル亡命しその後、かつてルーベンス一家15年以上住んでいた邸宅1642年死去した『マリー・ド・メディシスの生涯』ルーベンスにとって最初大規模な絵画制作依頼であったが、マリー生涯21点もの絵画として描き出すのは、ルーベンスにとっても極めて困難な作業だった。それまでマリー生涯絵画の題材なりそうなのは、フランス王アンリ4世との結婚2人の間に6人の子供をもうけた(うち1人幼少死去)ことぐらいだったからである。当時女性称賛するような美術品制作されることはあまりなかったが、ルーベンスは「異性が持つ美徳」に深い敬意抱いていた芸術家であり、オーストリア大公イサベル・クララ・エウヘニア肖像画などに、この傾向顕著に見られるとはいえマリー生涯は夫のアンリ4世のそれとは違って華やかな勝利満ちたものでも、強敵争った経験があるわけでもなかった。それどころか、マリー政治的不祥事多く引き起こしており、これらの出来事そのまま描き出すことは、ルーベンスにとって物議を醸しだし、他の宮廷たちから非難されるおそれすらあった。このような事態避けるために、ルーベンス自身が持つ豊富な古典文学知識伝統的な絵画表現技法用いることにした。マリー生涯における日常的風景取り上げ、それらを美化し作品繊細な筆致描いたのである16世紀から17世紀にかけて、キリスト教世界描いた美術作品取り入れられ寓意は、教養ある芸術家や一市民にとって馴染みあるもので、作品芸術性高めるために多用されていた。たとえば、ルーベンスマリー母親ジョヴァンナを、ギリシア神話神々囲まれている神格化され女性として描いた。これらギリシア神話神々は、マリー際立たせるために意図的に不明瞭に表現描かれている。『マリー・ド・メディシスの生涯』は他の芸術家たちにも影響与えたロココ期のフランス人画家アントワーヌ・ヴァトー1684年 - 1721年)やフランソワ・ブーシェ1703年 - 1770年)は、この連作模写描いたことがある

※この「マリー・ド・メディシス」の解説は、「マリー・ド・メディシスの生涯」の解説の一部です。
「マリー・ド・メディシス」を含む「マリー・ド・メディシスの生涯」の記事については、「マリー・ド・メディシスの生涯」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「マリー・ド・メディシス」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マリー・ド・メディシス」の関連用語

マリー・ド・メディシスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マリー・ド・メディシスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマリー・ド・メディシス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマリー・ド・メディシスの生涯 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS