マリー・ド・メディシス
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マリー・ド・メディシス(仏: Marie de Médicis, 1575年4月26日 - 1642年7月3日[1])は、フランス国王アンリ4世の2番目の王妃で、ルイ13世の母である。
- ^ Marie de Médicis queen of France Encyclopædia Britannica
- ^ 中野京子『名画で読み解く ブルボン王朝 12の物語』光文社、2010年、43頁。ISBN 978-4-334-03566-2。
- 1 マリー・ド・メディシスとは
- 2 マリー・ド・メディシスの概要
- 3 生涯
- 4 子女
マリー・ド・メディシス
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「マリー・ド・メディシスの生涯」の記事における「マリー・ド・メディシス」の解説
マリー・ド・メディシスは、1600年10月5日にフランス王アンリ4世の二番目の王妃となった。マリーの父はトスカーナ大公フランチェスコ1世である。アンリ4世がマリーと結婚した理由として、マリーの叔父にあたるフェルディナンド1世が、当時のトスカーナ大公として大きな権力と財産を握っていたことも関係している。アンリ4世は1610年に死去し、フランス王位を継いだのはマリーとの間に生まれたわずか8歳のルイ13世で、マリーは幼いルイ13世の摂政の役割を果たすようになっていった。しかしながらルイ13世が1614年に13歳になっても、マリーは摂政としてフランスの実権を手放すことはなかった。そして1617年、当時15歳だったルイ13世は自身でフランスを治めることを決意し、マリーをブロワ城へと追放するに至った。 その後4年にわたってマリーとルイ13世は和解しようとはしなかったが、1621年にマリーのパリ帰還が許された。パリに戻ったマリーは建築やリュクサンブール宮殿の装飾に熱中するようになり、ルーベンスがマリーから膨大な美術品制作を請け負うようになっていく。この頃のルーベンスはマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの宮廷画家を務めていた。マリーとルーベンスが初めて面識を持ったのは、1600年にフィレンツェで行われたマリーとアンリ4世の代理結婚式の場だった。1621年にマリーはルーベンスに、リュクサンブール宮殿の装飾用として、マリーとアンリ4世を描いた2点の大きな肖像画制作を依頼した。この2点が、マリーの生涯を寓意に満ちた21点の連作絵画として描き上げた最初の作品だった。21点の絵画が完成したのは1624年の終わりで、1625年5月1日に行われたマリーの娘アンリエット・マリーとイングランド王チャールズ1世との代理結婚式で、装飾として使用されている。マリーの夫アンリ4世の生涯を描く連作は結局未完に終わり、習作、下絵が数点現存しているだけである(後述)。これは、マリーが1631年にルイ13世にフランスからの永久追放処分を受けたことにも一因がある。マリーはブリュッセルに亡命し、その後、かつてルーベンス一家が15年以上住んでいた邸宅で1642年に死去した。 『マリー・ド・メディシスの生涯』はルーベンスにとって最初の大規模な絵画制作依頼であったが、マリーの生涯を21点もの絵画として描き出すのは、ルーベンスにとっても極めて困難な作業だった。それまでのマリーの生涯で絵画の題材になりそうなのは、フランス王アンリ4世との結婚と2人の間に6人の子供をもうけた(うち1人は幼少で死去)ことぐらいだったからである。当時は女性を称賛するような美術品が制作されることはあまりなかったが、ルーベンスは「異性が持つ美徳」に深い敬意を抱いていた芸術家であり、オーストリア大公妃イサベル・クララ・エウヘニアの肖像画などに、この傾向が顕著に見られる。とはいえ、マリーの生涯は夫のアンリ4世のそれとは違って、華やかな勝利に満ちたものでも、強敵と争った経験があるわけでもなかった。それどころか、マリーは政治的不祥事を多く引き起こしており、これらの出来事をそのまま描き出すことは、ルーベンスにとって物議を醸しだし、他の宮廷人たちから非難されるおそれすらあった。このような事態を避けるために、ルーベンスは自身が持つ豊富な古典文学の知識や伝統的な絵画表現技法を用いることにした。マリーの生涯における日常的風景を取り上げ、それらを美化した作品を繊細な筆致で描いたのである。16世紀から17世紀にかけて、キリスト教的世界を描いた美術作品に取り入れられた寓意は、教養ある芸術家や一般市民にとって馴染みあるもので、作品の芸術性を高めるために多用されていた。たとえば、ルーベンスはマリーの母親ジョヴァンナを、ギリシア神話の神々に囲まれている神格化された女性として描いた。これらギリシア神話の神々は、マリーを際立たせるために意図的に不明瞭に表現で描かれている。『マリー・ド・メディシスの生涯』は他の芸術家たちにも影響を与えた。ロココ期のフランス人画家アントワーヌ・ヴァトー(1684年 - 1721年)やフランソワ・ブーシェ(1703年 - 1770年)は、この連作の模写を描いたことがある。
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固有名詞の分類
フランスの王妃 | ロザーラ・ディタリー イザベル・ダラゴン マリー・ド・メディシス マルグリット・ド・プロヴァンス アデライード・ダキテーヌ |
メディチ家 | アレッサンドロ・デ・メディチ ジョヴァンニ・デ・メディチ マリー・ド・メディシス フィレンツェ公国 フェルディナンド・デ・メディチ |
ナバラの王妃 | レオノール・デ・トラスタマラ マルグリット・ド・ヴァロワ マリー・ド・メディシス ブランシュ・ダルトワ ジェルメーヌ・ド・フォワ |
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