マリー・ド・メディシスとは? わかりやすく解説

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マリー・ド・メディシス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 13:54 UTC 版)

マリー・ド・メディシス
Marie de Médicis
フランス王妃
ナバラ王妃
在位 1600年12月17日 - 1610年5月14日
戴冠 1610年5月13日

出生 (1575-04-26) 1575年4月26日
トスカーナ大公国フィレンツェピッティ宮殿
死去 (1642-07-03) 1642年7月3日(67歳没)
神聖ローマ帝国
ケルン大司教領ケルン
埋葬 フランス王国サン=ドニサン=ドニ大聖堂
結婚 1600年12月17日 リヨン大聖堂
配偶者 アンリ4世
子女
家名 メディチ家
父親 トスカーナ大公フランチェスコ1世
母親 ジョヴァンナ・ダズブルゴ
サイン
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『マリー・ド・メディシスの肖像』(1622年)ピーテル・パウル・ルーベンス画、プラド美術館所蔵

マリー・ド・メディシス: Marie de Médicis, 1575年4月26日 - 1642年7月3日[1])は、フランス国王アンリ4世の2番目の王妃で、ルイ13世の母である。

生涯

イタリアフィレンツェの名門メディチ家に生まれる。イタリア語名はマリア・デ・メディチMaria de' Medici)。父はトスカーナ大公フランチェスコ1世ヴァロワ朝最後の3人の王の母であるカトリーヌ・ド・メディシスとは遠縁の同族である。

1600年、27歳の時に、前妻マルグリット・ド・ヴァロワと離婚したばかりのアンリ4世に見初められ、フランス王室に嫁いだ。が、これは国の財政が逼迫していたためにアンリ4世が15万ポンドもの持参金を目当てにした政略的婚姻であった。アンリ4世の女好きは有名で、生涯で50人もの愛人がいたともいわれる。夫が留守がちなことに加え、結婚当初フランス語が喋れなかったマリーの王宮での暮らしは孤独感が付きまとっていたという。それを紛らわすためか、マリーの浪費癖は尋常ではなく、毎日のように宝石を購入したりした挙句、せっかくの持参金もほとんど底をついてしまうほどであった。

1601年、待望の世継ぎであるルイ13世を出産したことにより、王宮での立場は一気に向上する。そして、他に5子をもうける(成長したのはスペインフェリペ4世王妃イザベルサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世クリスティーヌオルレアン公ガストンイングランドチャールズ1世王妃アンリエット・マリーである)。アンリ4世も放蕩を自重し、自分が不在の場合に国政の全権をマリーに与える布告を出した。夫の愛も取り戻し、王宮で穏やかな生活を送ることができるかに思われたが、1610年に狂信的カトリック教徒によりアンリ4世は暗殺フランス語版された。マリーは王位を継いだ息子ルイ13世の摂政として、フランス王政を担う重責を背負うこととなった。

しかしその後、アンリ4世時代の宰相を罷免して、イタリア出身のアンクル元帥ことコンチーノ・コンチーニなる人物を補佐官として重用した。アンリ4世時代には国内のカトリックとプロテスタントの融和が図られていたが、マリーはカトリックをあからさまに擁護し、子供たちをフランスにとっては政敵であるはずのハプスブルク家と結婚させるなど、フランス国民を思い遣った名君として知られたアンリ4世の政治方針をことごとく破棄した。このことが、次第に政治に目覚めてきた息子ルイ13世や有力貴族たちの不満を募らせていった。彼らはマリーに三部会開催を迫るなどして政治の改革を要求した。

マリー・ド・メディシスの生涯』(1622年~1625年)より「マリーのマルセイユ到着」、ピーテル・パウル・ルーベンス画、ルーヴル美術館所蔵

次第に不利な立場に追いやられつつあったマリーであったが、有能なリシュリュー枢機卿が政治の舞台に登場する。マリーは自分の支援者として登用しようとしたが、息子ルイ13世は先手を打った。1617年、ルイ13世はコンチーニの暗殺及び母マリーのブロワ城幽閉を命じ、リシュリューを自分の補佐官として味方に引き入れた。マリーは1619年にブロワ城を脱出し、次男オルレアン公ガストンと共に反乱軍を決起したが、ほどなく国王軍に鎮圧された。リシュリュー卿のとりなしでマリーはルイ13世と和解し、1621年まで王立議会の一員として政治に携わった。

リシュリューがルイ13世の宰相となって政治の実権を握ると、マリーはリシュリューの失脚を画策し始めるが、この時もリシュリューの方が一枚上手であった。1631年にマリーはフランスを追放され、ブリュッセル亡命する。1642年、ケルンで没した[2]

ルーヴル美術館には「マリー・ド・メディシスの生涯」と題された、ルーベンスによる24枚の連作大画が展示されている。ルイ13世に反乱し和解した後、リュクサンブール宮殿改築の際にマリー自身がルーベンスに注文した作品で、彼女の生誕から婚姻、王室での日々などが神話の神になぞらえた姿で描かれている。

子女

脚注

  1. ^ Marie de Médicis queen of France Encyclopædia Britannica
  2. ^ 中野京子『名画で読み解く ブルボン王朝 12の物語』光文社、2010年、43頁。ISBN 978-4-334-03566-2 

文学作品

  • ミシェル・カルモナ『マリ・ド・メディシス 母と息子の骨肉の争い』辻谷泰志訳、国書刊行会、2020年

関連項目


マリー・ド・メディシス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:04 UTC 版)

マリー・ド・メディシスの生涯」の記事における「マリー・ド・メディシス」の解説

マリー・ド・メディシスは、1600年10月5日フランス王アンリ4世二番目王妃となったマリーの父はトスカーナ大公フランチェスコ1世である。アンリ4世マリー結婚した理由として、マリー叔父にあたるフェルディナンド1世が、当時トスカーナ大公として大きな権力財産握っていたことも関係している。アンリ4世1610年死去しフランス王位を継いだのはマリーとの間に生まれたわずか8歳ルイ13世で、マリーは幼いルイ13世摂政役割を果たすようになっていった。しかしながらルイ13世1614年13歳になっても、マリー摂政としてフランス実権手放すことはなかった。そして1617年当時15歳だったルイ13世自身フランス治めることを決意しマリーブロワ城へと追放する至ったその後4年わたってマリールイ13世和解しようとはしなかったが、1621年マリーパリ帰還許された。パリ戻ったマリー建築リュクサンブール宮殿装飾熱中するようになり、ルーベンスマリーから膨大な美術品制作請け負うようになっていく。この頃ルーベンスマントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ宮廷画家務めていた。マリールーベンス初め面識持ったのは、1600年フィレンツェ行われたマリーアンリ4世代理結婚式の場だった。1621年マリールーベンスに、リュクサンブール宮殿装飾用として、マリーアンリ4世描いた2点大きな肖像画制作依頼した。この2点が、マリー生涯寓意満ちた21点連作絵画として描き上げた最初作品だった。21点絵画完成したのは1624年終わりで、1625年5月1日行われたマリーの娘アンリエット・マリーイングランド王チャールズ1世との代理結婚式で、装飾として使用されている。マリーの夫アンリ4世生涯を描く連作結局未完終わり習作下絵が数点現存しているだけである(後述)。これは、マリー1631年ルイ13世フランスからの永久追放処分受けたことにも一因がある。マリーブリュッセル亡命しその後、かつてルーベンス一家15年以上住んでいた邸宅1642年死去した『マリー・ド・メディシスの生涯』ルーベンスにとって最初大規模な絵画制作依頼であったが、マリー生涯21点もの絵画として描き出すのは、ルーベンスにとっても極めて困難な作業だった。それまでマリー生涯絵画の題材なりそうなのは、フランス王アンリ4世との結婚2人の間に6人の子供をもうけた(うち1人幼少死去)ことぐらいだったからである。当時女性称賛するような美術品制作されることはあまりなかったが、ルーベンスは「異性が持つ美徳」に深い敬意抱いていた芸術家であり、オーストリア大公イサベル・クララ・エウヘニア肖像画などに、この傾向顕著に見られるとはいえマリー生涯は夫のアンリ4世のそれとは違って華やかな勝利満ちたものでも、強敵争った経験があるわけでもなかった。それどころか、マリー政治的不祥事多く引き起こしており、これらの出来事そのまま描き出すことは、ルーベンスにとって物議を醸しだし、他の宮廷たちから非難されるおそれすらあった。このような事態避けるために、ルーベンス自身が持つ豊富な古典文学知識伝統的な絵画表現技法用いることにした。マリー生涯における日常的風景取り上げ、それらを美化し作品繊細な筆致描いたのである16世紀から17世紀にかけて、キリスト教世界描いた美術作品取り入れられ寓意は、教養ある芸術家や一市民にとって馴染みあるもので、作品芸術性高めるために多用されていた。たとえば、ルーベンスマリー母親ジョヴァンナを、ギリシア神話神々囲まれている神格化され女性として描いた。これらギリシア神話神々は、マリー際立たせるために意図的に不明瞭に表現描かれている。『マリー・ド・メディシスの生涯』は他の芸術家たちにも影響与えたロココ期のフランス人画家アントワーヌ・ヴァトー1684年 - 1721年)やフランソワ・ブーシェ1703年 - 1770年)は、この連作模写描いたことがある

※この「マリー・ド・メディシス」の解説は、「マリー・ド・メディシスの生涯」の解説の一部です。
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