マリー・ド・ブロワ (アンジュー公妃)とは? わかりやすく解説

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マリー・ド・ブロワ (アンジュー公妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/22 15:00 UTC 版)

マリー・ド・ブロワ
Marie de Blois

出生 1345年
死去 1404年
配偶者 ルイ1世・ダンジュー
子女 マリー
ルイ2世
シャルル
家名 シャティヨン家
父親 ブルターニュ公シャルル・ド・ブロワ
母親 ジャンヌ・ド・パンティエーヴル
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マリー・ド・ブロワ(Marie de Blois, 1345年 - 1404年)は、ブルターニュ公シャルル・ド・ブロワとパンティエーヴル女伯ジャンヌの娘。アンジュー公・名目上のナポリ王ルイ1世の妃。

生涯

マリーは1360年にフランス王ジャン2世の息子ルイ1世と結婚した[1]。この結婚により夫の称号は増加したが、実際にナポリ王国を統治することはなかった。1384年にルイ1世が亡くなると、プロヴァンスのほとんどの町が息子ルイ2世に対して反乱を起こした。マリーは貴重品をに入れて軍隊を結成した。

マリーと幼い息子、そして軍隊は支援を得るために町から町へと移動した。1387年、ルイ2世はプロヴァンス伯として正式に認められた。その後マリーはフランス王シャルル6世に対し、息子のナポリ獲得を支援するよう訴えた。1390年、ルイ2世は教皇とフランスの支援を受けてナポリへ向けて出航した。マリーはアラゴンがルイ2世を妨害しないように、ルイ2世とヨランド・ダラゴンとの結婚交渉を行った[2]

ルイ2世とヨランドは1400年に結婚した[3]。マリーは有能な統治者であり、死の床でルイ2世に20万エキュを貯めていたことを明かした。これは、ルイ2世が捕まった場合にマリーが身代金を支払えるようにするためのものであった。

子女

  • マリー(1370年 - 1383年)[4]
  • ルイ2世(1377年 - 1417年) - アンジュー公、ナポリ対立王[1]
  • シャルル(1380年 - 1404年) - ターラント公、ルシー伯、エタンプ伯、ジアン伯[4]

脚注

  1. ^ a b Rohr 2016, p. 30.
  2. ^ Rohr 2016, p. 17.
  3. ^ Rohr 2016, p. 20.
  4. ^ a b Potter 1995, p. 374.

参考文献

  • Potter, David (1995). A History of France, 1460-1560: The Emergence of a Nation State. St. Martin's Press 
  • Rohr, Zita Eva (2016). Yolande of Aragon (1381-1442) Family and Power: The Reverse of the Tapestry. Palgrave Macmillan 



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