マリー・ド・モンフェラートとは? わかりやすく解説

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マリー・ド・モンフェラート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 15:12 UTC 版)

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マリー
Marie de Montferrat
エルサレム女王
戴冠するマリーとジャン・ド・ブリエンヌ
在位 1205年 - 1212年

出生 1192年
死去 1212年
配偶者 ジャン・ド・ブリエンヌ
子女 イザベル2世
家名 アレラーミチ家
父親 モンフェッラート侯コンラート1世
母親 イザベル1世
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マリー・ド・モンフェラート(Marie de Montferrat, 1192年 - 1212年)はエルサレム王国女王(在位:1205年 - 1212年)。マリーはフランス語名で、イタリア語名はマリーア・ディ・モンフェッラート(Maria di Monferrato)またはマリーア・ディ・ジェルザレンメ(Maria di Gerusalemme)。

生涯

イタリアモンフェッラート侯コンラート1世とエルサレム女王イザベル1世の長女。

父が1192年4月にティール暗殺教団によって殺されると、母イザベルは身重の身で5月にシャンパーニュアンリ2世と再婚した(ギヨーム・ド・ティールとイマード・アッディン・アル・イスファハニ、東西の歴史家が同じ記述を残す)。その後生まれたのがマリーであった。

1205年、母の死にともない13歳で即位。母の異父弟ベイルート卿ジャンが摂政をつとめた。

1210年9月14日、ジャン・ド・ブリエンヌアクラで政略結婚。長女ヨランド(イザベルの名で知られる)を1212年に出産後、産褥熱でマリーは死亡した。ヨランドはただちに即位し、ジャンがヨランドの摂政となった。

マリーの直系の子孫は、1268年にコンラート3世が南イタリアで処刑されたことで絶えた。その後、マリーの異父妹アリス・ド・シャンパーニュの血統が、エルサレム王位を継いだ。





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