マリー・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュとは? わかりやすく解説

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マリー・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/16 17:55 UTC 版)

トゥアール公爵夫人マリー、ジャン・デュカイエ(Jean Ducayer)画

マリー・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュMarie de La Tour d’Auvergne, 1601年1月17日 テュレンヌ - 1665年5月24日 トゥアール)は、ブルボン朝時代フランスの貴族女性。トゥアール公爵夫人。テュレンヌ大元帥の姉。

生涯

ブイヨン公爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュと、その2番目の妻エリーザベト・フランドリカ・ファン・ナッサウの間の第2子・次女で、家領のスダン公領の宮廷で母親によってユグノー信徒として育てられた。お互いの母親がオラニエ公ウィレム1世の娘で従兄にあたるトゥアール公アンリと幼いうちから許嫁の関係にあり、2人は1619年1月19日に婚姻契約を、翌月2月18日に結婚式を、いずれもスダンで行っている。

結婚後は、姑かつ叔母であり、トゥアール公爵家の実質的な当主であるシャルロッテ・ブラバンティナ・ファン・ナッサウにひたすら付き従って暮らした。一家は当初、中世に建てられたヴィトレの城塞で暮らしたが、1636年ジャック・ルメルシエ英語版の設計で新造されたトゥアールの城館に移った。

1628年夫がカトリックに改宗した後もユグノー信仰を保ち、夫に代わって領地内のユグノー住民を庇護する役割を担った。マリーはトゥアールとヴィトレに聖堂を建立し、1659年にはルーダン英語版のユグノー共同体の庇護者となった。

1648年、ヘッセン=カッセル方伯家の息女エミーリエを長男の妻に迎えた際、姻戚となったヘッセン家の影響力を利用してヴェストファーレン条約に特別付帯条項を追加させた。条項はトゥアール公爵家がシャルロット・ダラゴンの相続権に基づくナポリ王国の王位請求権を保有する、という内容であった。

ユグノー信徒の下級貴族の娘エレオノール・デミエ・ドルブリューズを公爵家の城の侍女として召していたが、彼女は1665年にリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムと知り合い、後に身分差を乗り越えて侯妃に納まることになった。

死後、ユグノー信徒のままだったにもかかわらず、トゥアールのカトリック派の教区教会であったノートルダム教会に埋葬された。

子女

夫との間に5子をもうけた。

参考文献

  • Le Mémoire de 1661, in: Hugues Imbert (Hrsg.), Mémoires de la Société des Antiquaires de l'Ouest, Band 21, 1867.
  • Pierre Congar, Jean Lecaillon, Jacques Rousseau, Sedan et le pays sedanais, vingt siècles d’histoire, Éditions F.E.R.N., 1969
  • Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln, Band 10, 1986, Tafel 2 und Tafel 97



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